日本英文学会関東支部メイン・シンポ

6月18日(土)に青山学院大学で行われるこの件について宣伝します:

近代と情動――文学、美学、哲学、心理学、の相互交渉をめぐって

PMLA 130. 5 (2015) の「感情 emotion」特集は、当該概念それ自体の意味論的自己撞着から議論を開始する。「不気味なもの」を語るフロイトのごとく各種の辞書(たとえば『ウェブスター』)を繙き、まずは「感情」なるものが19世紀ブルジョワ主体の「個人の所有物」として意味づけられた消息が示される。一方で、motionと語源的に近接するemotionが「個人」の制御の及ばぬ心的強度(affectivity)を帯びることを、辞書的定義は同時に指し示す。個人の所有物でありながらその支配を逸脱する「感情」――その意味論的矛盾は、近代的「個人=感情=内面」という概念それ自体の不可能性を暗示する。本シムポジウムは、まさにその不可能性に宿る「もの」として「情動」の強度=否定性を読み、近代の「心」をめぐる諸言説の制度性のみならず、昨今の「情動理論」のそれにも介入を試みる。(文責・遠藤)


“Miserable Loneliness”―ハーマン・メルヴィル作品における醜い/秘密の感情
古井 義昭(青山学院大学
アメリカ文学分野における近年のアフェクト研究の主要成果の一つとして、Sianne NgaiのUgly Feelings (2005) が挙げられる。本発表は、Ngaiが定義するところの「醜い感情」という概念を参照しながら、主にハーマン・メルヴィルの “Bartleby” (1853) における感情のありようを論じるものである。この短編小説は実に多くの「醜い感情」に満ちている。内面をほとんど明らかにしないバートルビーの感情は読解不可能であるが、弁護士の語り手は苛立ちなどの不快感を常に表明している。それだけではない。語り手はバートルビーの内面を忖度し、寂しさといった醜い感情を一方的に読み込んでもいる。本発表の目的は、「なにを感じているのかわからない人物」の感情をそれでも言語化してしまうという、語り手の行為―あるいは暴力―について検討することにある。さらには、The Confidence-Man (1857) に登場する 「秘密の感情」というフレーズにも注目することで、メルヴィル作品一般における、感情が不可視な登場人物たちの存在についても考察したい。


“A feeling feels as a gun shoots”――William Jamesのプラグマティックな情動とHenry Jamesのひび
齊藤 弘平(青山学院大学
21世紀に最新の批評理論として猛威をふるっているように見える情動理論であるが、その理論的土台に関して言えば、Silvan Tomkins (1911-1991) の唱えた “affective resonance” にせよ、Brian Masumi (1956-) が説く “relationality” にせよ、劇的なパラダイムの転換を要求する新しいものというよりは、むしろ近代アメリカ哲学を継承し発展させたものに思われることがしばしばある。なぜなら、William James (1842-1910) が晩年に提唱した 「根本的経験論」(radical empiricism) に、説明の体系とその目的がよく似ており、そこで想定されている「感情/情動」(feeling/affect) の非人称的なはたらきも共通であるからだ。本発表では、「アメリカ近代心理学の父祖」ゆえにWilliam James が考えた「感情/情動」を基盤にする「経験論」としてのプラグマティズムを、あらためて「ただの功利主義」という誤解から解き放ち、その上で、「情動の否定性」という契機が肯定の哲学たるプラグマティズムにも内在してしまう様相を、自ら「プラグマティズム化」した作品を書いたと自負するHenry JamesのGolden Bowl (1904) を通して、考察してみたい。


風景の実存/情動化――ヴァージニア・ウルフとロジャー・フライの美学理論
遠藤 不比人(成蹊大学
美学史におけるジャーゴンとしての「ポスト/印象主義」といった水準で議論をされてきたウルフとフライの視覚芸術をめぐる対話に関して、新たな視点が最近提出されている。中でも注目すべきは、19世紀後半の不可知論的哲学を、彼らの美学理論の背後に読む論点である。これが即座に連想させるのは、ド・マンの「時間性の修辞学」におけるワーズワースの実存的な不安である。ド・マンが露わにしたのは、所与の神学的意味論からの「風景」の逸脱、その字義化=実存化であった。近代(文学)の「起源」をそこに想定してみるなら、ウルフの『燈台へ』と『波』における「風景」の実存化と呼ぶべき言語、あるいはフライにおけるセザンヌの特権化を、「近代」の再歴史化という文脈に位置付けることができる。そこで明らかになるはずは、モダニズム、ポスト/印象主義ロマン主義といったジャーゴンの抽象性が抑圧する、モダニティの唯物論(情動)的な歴史性である。


Paul de Man における「希望」という情動 
鈴木 英明(昭和薬科大学
Paul de Manはいわゆる「記号論的転回」以前のテクストにおいて、意識や言葉が、起源へのノスタルジアから自然というモノに合一しようとする態勢を執拗に批判している。そして、そうした態勢を不可能かつ不可避にしている自然の優位性は、マラルメらポスト・ロマン主義の詩人(これはポスト革命世代のことでもある)にとって「失敗と不毛性という感情(feeling)として経験される」と述べている( "Intentional Structure of the Romantic Image")。他方で、この論文の末尾において、そうした自然の優位性にもとづかない、(ルソー、ワーズワス、ヘルダーリンらが模索した)言語のあり方が、意外なことに "depository of hopes" として言及される。だがこのフレーズに内実が与えられることはない。本発表では、ド・マンのいう「希望」を分節化しがたい情動として捉え、これに意味内容を見出そうとする「愚」を犯すことによって、さまざまな文脈で「ポスト」を生きる私たちの問題を考える一助としたい。