モ/モ研発足

モダニズム/モダニティ研究会第一回に出席。いって良かった。すでにいくつかのブログで報告があるので蛇足はやめておく。といいながら一言。秦さんの『恥辱』読解はいかにもこの読み手の個性が出ていたと思う。英語でよくstrongとかpowerfulとかいう表現を使うがまさにそのような議論のすえに欲動でも欲望でもない「情動」の政治的可能性が示唆される。しかしここで「恥辱」に満ちたカムアウトをすれば小生『恥辱』未読でありまして、秦さんから「どうでした?」と感想を聞かれたときは冷や汗が・・・。自動販売機の近くでなるべく目が合わないように隠れていたら、嘘のように秦さんが近づいてきたときには心底「悪いことはできない・・・」と思った(そういえば村山さんが『クリスマス・キャロル』を未読との勇気あるカムアウトをブログでしていたなあ)。そんな立場で図図しいことを申せば「情動」がらみで少々簡単に「言語の外とか内」という話があって、ラカンがその図式で文脈化されていたのに違和感を感じたので、秦さんにはそう申し上げた。脇田さんの戦前の英文学と精神分析の受容についてのお話は多くの資料の渉猟にまずは敬服した。しかしすでにid:shintakさんが指摘のように戦前の(特に30年代の)知識人のことを考える際に「マルクス主義」との関係という問題が重要で、精神分析の受容にしてもその脈絡の精査が肝心だと思う。私が最後に「疎外」といったのはその脈絡である。「無意識」なるフロイトのメタ心理学がこの脈絡で文学化=共同体化されるのが普通であり(その中でフロイトユングの混同という致命的な誤謬が頻発する)そういった悪しきデフォルトからの「偏差」においてリサーチをしないと、自己目的な資料渉猟になってしまうかもしれない。その意味で日本における受容がフロイトの「メタ心理学」にどう反応したのか聞きたかったが、たぶん「涅槃原理」くらいの洗練であったのではないかといまのところ高をくくっているが、調べないとわからない。しかしこの「涅槃原理」にしてもいわば主体を零度にリセットにするための思弁ということで、それとマルクス主義的な問題系との交錯、さらにそこに仏教言説がどう介入するのか・・・あるいは仏教ファシズムという美学=政治学・・・この辺の「思想」と「政治」と「美学」についての考察はやはり不可欠だろう。懇親会では同人誌について具体的な議論をした。この企画にしても北米を中心に制度化された「批評理論」を学び捨てつつ、あらためてマルクス(主義)を熟考するという方向性にあるわけで、必然的にそこにおいてレイモンド・ウィリアムズの言語が特権化される。しかしこの前某所で北米でPhDをとったある優秀ということになっている人たちと話していて、マルクス主義がらみで信じられないほど素朴な発言があったので「ぼくはマルクス主義者です。ですのでポストモダンという用語は使いません」と申し上げたらその方々ポカ〜ンとした表情に。でもこの程度の発言の理解は「批評理論」の枠内だと思いますけども。懇親会での収穫としてきわめて魅力的なお仕事の企画が。大変乗り気です。