解題の効能について

先日お知らせした冷戦読書会で解題を。最初に読んだときよりも議論の粗が見えてきたのでごく普通の要約をしてしまったが、論文への批判的なコメント、あるいは、アメリカ研究のプロによる個別具体的な知識はさすがにちがうなあ、とか非常に参考になる。重要な議論はなるべく人前で要約し解題してみるものだなあ、と再認識。読書会では当該議論の批判的な整理で終わったかのような印象。

しかしその後の飲み会で雑談をするうちにid:shintakさんの読書会における質問の趣旨が突然わかる。つまり大雑把に言えば、当該議論の「経験」ということを私がまったく顧慮していなかったということに気がついたわけで。この議論の冒頭の著者の個人的な「母」としての経験への言及を私はスキップしていたのだが、しかしそれとこの議論の結論部分におけるクラインの再評価とが微妙につながっていたことに気がついていなかった。「母」の(制度化された)精神分析による理論化と北米は冷戦期の「母」の言説化の共犯性を批判する議論であるのだが(つまり「文化=倫理=家父長制」の「起源」として神話化されつつも、その内部から逸脱する過剰なモノとされる(非倫理化される)「母」なるものということへの批判なのだが)、それならバトラーのクリステヴァ批判のほうがクリアではないかということもいえる。けれども、「母」とはつねに「父」の言説であるというがごとき議論よりは、クラインを導入し「母」=「モノ」=「倫理」という線をいく議論と冒頭の「母」という「経験」との連接のほうがいま読む場合に理論的=政治的な可能性として含蓄が深い(ただしこの「モノ」=「倫理」という線をもう少しこの議論は出してほしかった)。91年にクラインの精神分析的=フェミニズム的意義を先駆的に強調したジュリエットさんだが、思えばバトラーも「倫理=メランコリー」という線でクラインをその後に読んでいたわけで、北米におけるクライン理解という点でもなるほどみたいな理解も。

この論文が含意するのだが、冷戦システムの構造(最終的な破壊性を前提としつつ、それを排除=繰り延べすることで成立)と冷戦期北米中産階級「母」(起源の享楽として前提されつつ、それが抑圧されることで成立)との形式的な親和性という点は面白かった。またまさしくその意味で白人中産階級の「女=母」のセクシュアリティが「核(兵器)」の隠喩を通じて表象される(水着のビキニとビキニ環礁とのつながりをO智さんが指摘されていたが)なんて思いもよらず感動してしまう。

ウェッブ英語青年の今月の「フェチ」の話、予想にたがわず鋭過ぎの議論で、これまた感動する。

そうこうするうちに夏休みが終わりつつあるが、約束している仕事が山積で、鬱である。