お約束の原稿はどうにか

体調不良の中お約束の原稿をどうにかこなしていくがあとは数週間マーストリヒト方面の論文化へどうにか頭を向けないといけないけれども明確な締め切りがないとなかなか先に進まないのはいつものことでロンドンでほんの4日間だったけれども「そればかり」考えることの必要性を痛感したことをいまさらながら思いながらやはり自分のプロジェクトの核心部分の濃度が臨界点に達してそれゆえにそれが重点を移動していくようなそのような力が漲るような仕事をしなくてはしかたがないわけで(じつはこれは吉祥寺での「日本」をめぐるプロジェクトとにも連動する)まあサロン的なディレッタンティズムで社交を楽しむには小生氏素性からしプチブルで育ちが悪すぎるのでありましてと謙遜ばかりもしていられずそれもイヤミだからちょっとちがうことも云えばお約束の原稿も出版の企画としてはペダゴジカル系でこれはこれでまた最重要なプロジェクトと繋がるのは明白であってだって10年後にいまあり得ているような「英文科」があり得ているはずもなく世間はそんなに甘くもなく将来ぎりぎりあり得るかもしれないような英文科(それには「教養英語」も大いに関連する)を想定した教科書作りそれも中堅私大でも使用可能なものを作らなくてはいけないわけでそれへの布石になるような仕事であってみれば要はあらたなEnglishということを教科書の企画という水準で考えないと自身の仕事の意味すら見出せない按配なのだからと気色ばんでもこの方面の本格的な企画化はたぶん在外から帰国後かなあとか悠長なことを考えているのはやはり年齢のせいかどうかは留保しておきましょうと云っておきたいのと同時にでも具体的にこの企画を実現させる環境作りは徐々にだが確実に進めているつもりとかちょっとばかり鼻息荒く見得を切りながらその一方で仕事の核心部分の海外移転についてもこれまではかなり受身な態度であったけれどもpsychoanalysisってことに関して本当に身近なみなさますばらしく19世紀の美学とrespectability(それってある種の「文学」そのもの?)でもって応接なさるからこのことももっと律儀にいい人やっていないで真剣に考えないといけないなあ。