浜崎洋介『福田恆存の思想の<かたち>』

浜崎洋介著『福田恆存 思想の<かたち> イロニー・演技・言葉』新曜社、2011年

 保守の劣化というよりは幼児化とも言うべき現状というよりは窮状に生きざるを得ない今日、福田恆存の「保守」を「思想の<かたち>」として読み抜く本書をどう遇するべきか、つまりこの卓越した福田論の内容に賛同する以前にその議論を今日的な文脈にどう位置付けるべきかという問題がまずは浮上する。ただここで急いで付言すれば、保守を僭称する現下の政治家の言動を「保守」と呼び、それに抵抗する自身の態度を「革新」と呼ぶがごとき紋切り型を無批判にいま踏襲するとすれば、かかる知的怠惰にかつて仮借なき批判を加えたのが福田その人であった。このことを想起するとき、この孤高の批評家の今日的意義の輪郭が見えてくるかもしれぬ。浜崎氏は終章において福田を読解するメタ言語として現代思想を援用するどころか、福田の批評の内部に現代思想の可能性の数々が先駆的に批評の<かたち>として脈動していることに感嘆する。その点から言うなら、福田恆存とは戦後日本の支配的言説に右左を問わず反復された一連の抽象的形而上学を独自の思想において執拗に脱構築した「保守」思想家ということになろうか。
 福田は敗戦直後に華麗に登場した新進批評家であるという紋切り型がこれも無批判に繰り返されるが、本書は戦後俄に注目を集めた彼の批評の根幹に戦前における日本浪漫派との近接と離脱を読む。具体的には保田與重郎の鍵語であるイロニーを自家薬籠中にしながら神と共同体を喪失した近代的自我への懐疑を自己言及的に徹底し、その否定の身振りの果てに自我なる「空虚」において文学が不可能として可能となる作家的「誠実=地獄」を自身の批評言語として実践した。その脈絡で芥川、太宰論が執筆され、私小説を戦前の封建的遺物と断じる戦後の「進歩的」文学論の虚妄を突く。文学(近代的)自我に関する日本浪漫派の否定性の地獄を通過した福田にとって戦後の「主体性論争」あるいは「政治と文学」なぞという問題設定は右左を問わず知的弛緩以外の何ものでもなかった。
 しかしこの無限後退する自我をめぐるイロニーはD・H・ロレンスの思想を通過することで転向ならぬ「転回」を遂げる。個と集団の乖離という近代の宿命の内在的超越を絶望的に志向するロレンスと相即しながら福田は、語り得ぬ自己を語るというイロニーの不可能性が他者を前提する以上、そこには自己=仮面が間主観的つまりは演劇的空間において行為遂行的に立ち上がる、その可能性に賭ける。その態度が福田の戦後の批評の根源に「個」と「全体」という問題系を招来した。この福田的「全体wholeness」は戦後進歩主義者の形而上学たる「全体性totality」へ鋭利に介入する。前者はそれに所属することを宿命付けられた「個=部分」からは全体を明察することが叶わぬ「全体」であって、福田にあってそれは「自然」あるいは「伝統」と等価である。つまり一個の生活者が選択以前に生きる自然=必然としての伝統がそれであり、それがなければ「私が私でなくなる」という次元において個と全体は換喩的に交互に包摂し合う。つまり福田の全体=伝統とは人の日常の生においてあくまで行為遂行的に浮き上がってくる或る何かであり、積極的理念として語ることができない領野にそれは存する。それに比し戦後進歩派の「全体」とは「民主主義」という一語で歴史と文化のすべてを睥睨する生活とは遊離した抽象であって、その意味で戦後保守ないし右翼の「国体」あるいは「天皇」もその抽象(積極)性において同断である。それを直接語ることはできないがそれは確かにここにありそれがなければ私が私でなくなる或るもの。この一種保田的同語反復に福田のイロニーの戦後的転回があり、例えばそれは彼の「国語改革」批判においても遺憾なく発揮される。
 しかしいま福田を読むとは? 思えば保守を名乗る政権が「日本」をいかなる懐疑もなくあまりにも積極的な「理念」として語り、かつての安保論争にあって福田が丸山真男から脱構築的に流用した「実定法万能主義」でさえが蹂躙される今日におよび(さらにいえば米国は庇護=防衛から搾取=簒奪に戦略を転じている)国会前でデモを敢行しつつ「民主主義とは何か?」と修辞疑問を発し「民主主義とはこれだ!」と連呼(同語反復)する大学生の言葉に生きているのは(彼らにとってデモは生活の一部である)その語の最善の意味で福田的保守主義ではないのか。彼らの連呼は行為遂行的かつ演劇的に「民主主義」という不可視の全体の「いまここ性」を立ち上げていないか。福田は自らの保守主義を生活者として享受すべく政治を「賎業」と見下すことができたが、現在の民主主義的な保守主義者にはそのような高踏的贅沢は許されていない。しかし福田恆存保守主義脱構築は現政権を「保守」と呼ぶことを決して許しはしまいし、今日のデモのパラダイムがかつての安保闘争のそれとは完全に変質していることをなによりも明晰に説明する。