月末のもうひとつの試練とか

先日触れたマックネル教授のクライン論を通読し感銘。まずは冷戦構造――二極の不可能な出会いの凍結/遅延としての――と50年代の北米におけるジェンダーおよび「家庭」をめぐる言説構造のパラレルを示唆する主題は刺激的。まさに「歴史=リアル=政治」の露呈の回避としての50年代ということ。かつこの文脈で非倫理化=非社会化される「母」ポストモダンフェミニストにおける「母」との共犯性、そういった共犯性を免れぬフェミニズム言説がクラインを症候的に忌避せざるを得ない論理的必然を語るあたりも共感。ここではベルサーニにほとんど説得された小生などがクラインの思想的な限界とみているreparationにむしろ「倫理的主体」の立ち上げの心的=社会的契機が読み込まれていて、これはクライン読解として再考に値する。また次の一節などは先日の駒場での萌芽的な議論、クライン的欲動とラカン的な女性的享楽との差異と同一性という方向性において示唆的ではないか:

In Klein's theory, the "ethical" construction of the child--even though not classically Oedipal--is the direct result of its resistance to its own fantasies of aggression against the maternal body, cannibal orality, and so forth--as well as resistance to its own drives. That these take shape for the child's mental life in the form of only one part of the maternal body, and not its entirety, is crucial. It gives the infant a choice concerning its relation to the mother, who chiefly represents its sadistic drives to it: she can also, Klein finds, represent the fragile other, the other of lack and desire. Did this not perhaps guide Lacan's enunciation of woman as "not all"? He specifically does not say "not all there"--which would ascribe physical and mental deficits to her. "Not all" offers a potentially different sort of "opening" or "openness" to that provided by philosophy's feminine "w/hole" and Freud's "litte man," as well as to the everyday psychical fantasy (and horror) of mother as the Thing. (170)

以前小生がバトラーの口真似をしながら「クラインとサディズムと倫理」というノリのエッセイをメランコリーという脈絡で書いたときは、クライン的なサディズム/メランコリー――「モノ」としての母の不可能な享楽――のいわばリミット=零度に想定される、いわば死の欲動というべき超越論的な彼岸に想定されるものとしての「倫理」だが、というかバトラーの口真似をしすぎてもう少しポジティヴに書いてしまったが、いまこうして考え直してみるとクライン的サディズム=倫理をドゥルーズが読むフロイトサディズム(の絶対的否定性/攻撃性=超越論性)という周辺で再考できるかもしれないとか妄想暫し。

明日の5時限@池袋の予習のためにクリストファー・ノリスのド・マン論のよくできた序文を再読。例のイエールでの黄色い追悼号のミズムラ論文そのほかへの正しい言及があってその脈絡で必然的に「諦念」とか「断念」とかいう隠喩系が慎重に吟味されながらも「欲望」系のそれは不可触な禁句といつのまにかなっている。しかしノリスは然るべくあのシェリー論に意味深く言及しているが。でもさ、たとえば、この前メールマンの『革命と反復』のレクチャーをしたときに「テクストの修辞性の過剰なリミット=零度としての革命」ということをいったのは当然ド・マンの(特に後期の)批評との関係性においてであって、むしろ小生にとってのド・マンというのはまずは当たり前の話「言語という狂気」ということと同時に「享楽=死の欲動」という問題系の人でしか結局はない。もちろん共同的的=美学的=文学的=隠喩的水準での「欲望」とは思い切り関係はないが、あくまで「道徳」的なレヴェルを逃れていないrenunciationという物語をやはりダメですよ。これは全然「倫理的」ではないから。今日のエントリーで少しばかり仄めかされているかもしれない「倫理=純粋暴力」という問題系とむしろ親和性のある批評だと思う、ド・マンっていう人はね、やっぱり。これをすぐに「芸術は爆発だ!」という物語に還元して怒りだしたり、ミズムラ的「断念」でもってわかった気になってあとは律儀な表象ならぬイメージ分析で満足している人にはだいぶ嫌われてきたが、ぼくもそういう人あまり好きになれない。あ、また筆禍。

という次第でただいま小沢的腕力で刊行が準備されている同人誌の月末締め切りの論文は「表象のリミット/零度としての革命――ジェフリー・メールマン再読」みたいな題目になりそうな予感。まだ書き始めてすらいないが・・・。ヤバ。

追記:5月末の英文学会の全国大会@駒場がインフルエンザの影響を受ける可能性がなくはないようです。メールが回ってきたのですが、以下の学会のサイトあるいは東大駒場のサイトで情報を各自要確認ということです:

全国大会に足を運ばれる前に、ぜひ以下の学会ホームページおよび開催校の該当URLをご参照ください。
http://www.elsj.org/
[東京大学の対応についてはhttp://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/public11_j.html ]
(日本英文学会HPでもアクセスできるようになっております。)