新たな「イギリス批評史」という妄想

今日は午前中はキャンプ帰りのかみさんと子供のために夕食用のカレーを精魂傾けて(笑)調理し、午後からは翻訳作戦に邁進。しかし気持ちの良い天気だったのでこういう日は屋外で体を動かしたかった気も。野球とか山登りとか。新横浜まで車で彼らを迎えに行き、窓を開けて運転したら気持ちが良かったし。小生「芸術」とか言い出したのは中学3年くらいからで、それまでは完全に体育会系かつ野蛮系であり、その遺伝は確実に子供へ伝わっている。しかしその「芸術」との邂逅は、音楽ならバッハ、(嘘のようだが)文学はウルフの『灯台へ』(新潮文庫)だったなあ(日本文学なら梶井と中原だったりしたが)。

子供を風呂にいれた後でどっと睡魔が襲って来て、仕事場の机につっぷしながら爆睡していると、shintakさんが昨日の三田での研究会でのレクチャー用に作成したレジュメのファイルを送ってくれる。ざっと拝見して興奮してくる。行けばよかったとかなり後悔の念。この本の改題であることはブログid:shintakですでに報告されている。

Culture/Metaculture (The New Critical Idiom)

Culture/Metaculture (The New Critical Idiom)

この本、ざっと眺め「大事な本だ」と直感し「あとで丁寧に読もう」と思い、いまだにきちんと読んでいないといういつもの悪い癖なのだが、読まなくては。

送ってくださったファイルを眺めていると眠気が覚め、刺激を受け、やはり「イギリス批評」というものを「英文学史」という枠組みをまったく逸脱しながら、また従来の英文学(者)的な「イギリス批評」研究という枠組みを野蛮に破壊しながら、あらためて「近代=モダニティ」という点から再検討する必要を痛感する。当然すぎる話だがこの脈絡でマルクス主義というものの再考ということも新たな形で浮上してくる。つまり「イギリス近代」を自分が専攻した知的な必然性がずしんと腹に来るように納得するという感じも。やはりこのあたりは性懲りもなく研究会を組織したり、その勉強の結果を精力的に出版したりとかして、「イギリス」研究のまさに批評的なプレゼンスを日本語で示す必要も痛感する。「英文科」なり「英文学」専攻の英語教師の存在が、たかだか小学校での英語教育の導入という文脈で終焉=周縁化するというあまりも情けないほどに野蛮で非「文化」的な現状を憂うためにも、つまり正しくメタカルするためにも、これはぜひとも必要な作業だ。これは冗談ではなくかなりマジな話だと思う。「いまイギリスが面白い」式のどこかのひげを生やした某Hセンセイがかつてやったようなノリでは、英文科はかえって正しく淘汰されていくような危惧も(小生この種のイギリス本は個人的には趣味として大好きなのだが)。それではちょっとマズすぎる。

追記:「文学史は歴史を抑圧する」とかこのエントリーのようなことを始終ホザいていたのに、来年度から英文学史(後半)を担当することになりそう・・・(困った)。いやはや、英文科の教師になって以来ずっと心ひそかに恐れていた事態がついに・・・。そういえば少々以前にA部さんが例の書評空間で「英文学史」の担当をたらいまわしにするいかにも英文科教員的な会話をパロディー風に書いていたが、あれは秀逸だったなあ・・・。この際ほんとうに逃避行するか。

追記2:どうやら「300」「ベッカムに恋して」「ポストコロニアル」という検索でこのブログにヒットするらしく(あたりまえか)吉祥寺方面からのアクセスがかなりある模様。悪事はなかなか隠せぬ次第か。こんなことを言うとご覧になるのを遠慮する学生さんもいるかもしれないが、どうぞご覧ください。アクセス解析してもどなたがご覧かはまったくわかりませんから大丈夫です。涼しい顔をして教室で講義していても、私生活はかくも情けない次第でして・・・。そういえば村山さんのブログはときに学部長がご覧であったそうだし。