今年度も終了

この3月は職場の空気が剣呑になり、キョーム的雑務が過酷になるなか、心身ともに荒れ果てていく感じであったが、翻訳の初校というある意味では機械的な作業のおかげか、どうにか復活の方向へ向かっているらしい(でないと困る)。なんというかこれまでの人生の転機ともいうべき時期に反復されてきたある構造がやはり今回も反復したのかなあ、というような気もしている(なんのことだか書いている本人しかわからない)。まあ4月から始まる新年度は複数の意味で節目の年度なので、律儀に仕事するしかない。ともかくも初校は終わり月末の原稿を開始するはずが、新学期の準備のキョーム的仕事で毎日吉祥寺に出勤。昨日は卒論ガイダンス、2年生のゼミのクラス分け(またまた自慢すれば定員20名のところ小生のゼミには57人の応募があり、英米文学科の新2年生の数153人の3分の1強の数字である、どうだ参ったか!・・・と誰にいっているのか)。今日は明日のプレイスメント・テストの担当教室の音響設備の確認など(教室の一つは機械が見事に壊れていた)。そんなこんなの雑務の合間やら通勤の途中で以下の本を読了:

新自由主義と権力―フーコーから現在性の哲学へ

新自由主義と権力―フーコーから現在性の哲学へ

これを通じても『意味の論理学』におけるクライン読解を十分に理解できなかったが、ドゥルーズによる死の欲動(経験論的)死の本能(超越論的)の差異化については久しぶりに思い出しここしばらく弛緩していた思考能力が活性化された気も。後者はある種の純粋暴力であるわけだが。前半におけるニュウーリベ的経済とネオコン的政治の親和性についての議論は明晰であると同時に、後半の広義の「暴力論」と意味深く繋がるはずだが、その点に関してはこの比較的小さな本は十分な議論をしていない(ということで自分自身の暴力論へのよきヒントになったが)。最後のバトラーについての議論は既知のもの。あとラカンをかなり教科書的に悪役化しているよなあ・・・ということで4月3日は空いているので久しぶりに国立方面に出かけますか。まだまだ小生はリハビリ段階なので生き馬の目を抜くがごとき国立方面の秀才の方々、どうかお手柔らかにお願いします。あと次の本も読まなければねえ:

権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール

権力と抵抗―フーコー・ドゥルーズ・デリダ・アルチュセール

新学期のキョーム関連の雑務にまみれながらも、これから、教科書プロジェクト、10月のオランダでの国際学会方面、これらをやりながら、新学期の講義の準備というほとんど享楽的な多忙であるが、まあ酒量だけはコントロールしなければならない。

追記:そういえば職場の論集、アマゾンに出てた:

探究するファンタジー―神話からメアリー・ポピンズまで (成蹊大学人文叢書)

探究するファンタジー―神話からメアリー・ポピンズまで (成蹊大学人文叢書)