歴史的イヴェント

これまたすでにid:shintakさんが報告しているが神戸の学会のふたつのイヴェントはかなりの出来事だった。準備委員という役目柄初日は50年代シムポにはり付き係りで空調そのほかに気をつかわなくてはいけなくて集中力を持続できないところもあったが、議論は十分にフォロウできた。とくにこれまでの論者のRW読解の成果を踏まえないと議論のフォロウは少々難しかったのだろうか(議論の真価が十分伝わらないというか)。「文化左翼」とか文学の脱政治化というものに関する系譜学により「50年代」が前景化されるプロセスにおいて、現代の文学研究の問題が鋭角的に再浮上するばかりか、RWの『文化と社会』が敢行したあの系譜学がそこに重なるのであって、これはかなり壮大な「近代」批判の重要な一環となっている。この議論は先日インタヴューした関さんの重要なモティーフとも接続しているはずである(当然のこと、社会と文化の分離という問題は「近代」における大問題である)。同じくRW的「経験」という点に関しても「50年代」に限定された議論ではない。「50年代」の歴史化といっても実証的な歴史学ではなく「系譜学」であって、その際に過去の残滓(=挫折)との交渉がそのプロジェクト(語源通り)の可能性の中心となる。やはりこの辺の話からすべきなのだろうか。日曜の特別シムポも画期的かつ刺激的。もっといえば歴史的であるだろう。これは冷戦読書会@国立で予行演習を聞いていたが当日はさらに明晰な議論となっていた。とくにO智さんによる「モダニズム」なるものの美学化=脱政治化=心理学化に関するナラティヴは圧巻であり、このアクチュアリティを学会のマジョリティが共有するようになればと念願したりもする(ただときに、精神分析などといいながらモダニズムを読むお前もこの言説の共犯者だ!みたいなご批判を頂戴したりすると、それじゃあトリリングを批判しながらまさにモダニズムと同時に精神分析心理学化もやっちゃたトリリングあるいはニューヨーク・インテレクチュアル的なリベラル言説をもしかしたら反復することになりますよ、みたいな反論をしてもいいのだけれども。)。魅力的なナラティヴが提示されときにこそそこに収まらない「過剰」がみえてくることがあって、たとえばフーコーフロイト批判という脈絡でいうのならばつぎの本などをなんどもやはり挙げなくてはいけないのだろうか:

精神分析の抵抗―フロイト、ラカン、フーコー

精神分析の抵抗―フロイト、ラカン、フーコー

時間の都合でO田さんのお話が聞けなかったのは残念。しかしどうも冷戦読書会に出ていると「戦後」に関してはアメリカのほうが面白くなってきて困った。これからやる余裕はないので当面は吉祥寺のプロジェクトで日本のほうにエネルギーを注ぐことになるか。ただフォークナの美学化に関連するお二人の刺激的なナラティヴにさらに刺激されてつぎの本の「過剰」にあえてここで触れたりするとやはりお前は真性のリベラルだ!という烙印を押されるだろうなあ:

敗北と文学―アメリカ南部と近代日本

敗北と文学―アメリカ南部と近代日本