Alix’s forgetting/remembering

今日も9:30からBLのreading room。例のwork in progressの準備を現在まで(17:00)。1922年にThe International Journal of Psychoanalysisに掲載されたAlixの'Analysis of a Dream of Doubt and Conflict' が重要であることを、John Forrester(精神分析の歴史に関する第一人者)の論文で再確認。これで少しは先に進めるかもしれない。つまりFreudをforgetting/rememberingすることが意味深だということ。Forresterがどこかpassing commentであってsustained argumentをしていないけれども、これと並列しながら絡み合おうforgetting/remembering motherということ。これとAlix's strong defense of Melanie Klein's superego against Anna Freud'sがどう連関するかということ。クライン的maternal superegoの擁護とアンナ・フロイト的それの峻拒とはそれぞれ矛盾を含んだ対立をなしながら、biographical motherをforget/rememberをしている。この点とeat/introject/rememberとexcrete/project/forgetのdialecticとmelancholia/paranoiaという点も。この辺からthe MD relationshipについていろいろと頭をめぐらす。suffer=suffrageなんてことはどこまでいけるのか......ほとんどモノローグと化していますが、文章にしてみればそれほど複雑な話ではありません。

いずれにしてもAlixのarchiveをかなり読み込まないと実証はできないのは分かっています、はい。今回はRiviereのほうはあまり話ができないなあ。

最近の夕食はパスタがつづく。ちょっと和食に飽きた(ロンドンで)。そういえば昨日Bobと話をしていて、彼はフランスのある限定された白ワインをこよなく愛し、自家製のフォワグラと飲むと絶品という話を縷々語り、彼のdescriptionがvivid enoughだから文字通り垂涎ものだったが(ここで「水前寺清子」という名前がふと思いつくところは情けない)その話の流れで彼が家族とフランスの休暇用の家に行くときに、そこには地元のワインしか売っていないので、仕方なくロンドンからそのワインをたくさん持参せざるを得ないことをこう言っていた:carrying coals to Newcastle。まあロンドンで和食に飽きるというのも変な話しということで(話が逆か。carrying a certain bitter to London from Tokyoみたいなものだね、と言いったらウケてけれども)。キッチンのレンジで弱火にするコツを会得したら、ガーリックの香りがより出て、我ながら美味しくできる。昨日は野菜中心のあっさりめのパスタを作り、まあオリーブオイルとガーリックとsea saltで十分かと思ったけれども、余っている先日のチェダーチーズを少しばかり最後に入れてみたら、味に深みが出て非常によかった。今のところ夕食に関して外食なしであるなあ。その理由がみつからない。

今日は朝はかなり降っていてそのなかBLまで歩いているとあまりマゾ的でなくロンドンの出勤という感じがしてしみじみ幸福感が。すでに1ヶ月で日本(というか吉祥寺)に帰りたくなくなる。そういえばフラットを引き継いだ吉祥寺の同僚も3月末のメールのやり取りで「帰りたくない〜!」と叫んでいたなあ。