時差ぼけは残存

追記:そういえばヒコーキで観た映画の中に『それから』があったのを思い出した。松田優作が神経衰弱の漱石的インテリというのはギャグにもならないし、昔から苦手であった藤谷美和子(だったけ?)のことが自分は本当に苦手であることがわかったし(なぜかあの種のfemininityって許せない...そういえば、むかし知り合いのオカマがそう力説していたなあ)、途中でやめようかと思ったけれども、レトロ風のセットの出来がよかったので、それだけで最後まで。まあヒコーキの中は『ミッション・インポッシブル』みたいなおバカ映画がちょうどよいのかもしれない(去年だがジュリア・ロバーツ――この人も魅力がわからないーーが出て、イタリアとかインドとかバリに行く映画があったけれども、あれもおバカ映画でその限りで時間つぶしになった)。

疲労は消滅した感じだが、時差ぼけはまだ残っているみたいで、これまで9:30から17:00まで(lunchをskipしているからでもあるが)睡魔が来ることはなかったのだが、ここ2日間BLに復帰してから断続的にそれが襲ってきて困る。やはり疲労回復のために、フラットで不規則な時間に寝たいだけ寝たのだが、それで午前3:00とか4:00に目が覚めているというようになったのがいけない模様。ともかくすでに金曜になってしまったが今週は能率的にがたがたになってしまった。

今回のロンドンでのプロジェクトではthe mother daughter relationshipが大きなテーマで、それを特権化した20年代のイギリスの精神分析に焦点を当てるものだが、さらにそれをfeminine sexualityという視点からも再考するものなのだが、それをやはり歴史的に相対化し介入するラカンということも再認識しないといけないと思ってここ2日間は、つぎの本の再読など:

Feminine Sexuality: Jacques Lacan and the Ecole Freudienne

Feminine Sexuality: Jacques Lacan and the Ecole Freudienne

なんとofficeのみならずdeskをshareしているご縁というわけでもないけれどもJuliet MitchellとJacqueline Roseのintroductionなどを久しぶりに再読。この方々は言うまでもなくKleinに代表されるBritish psychoanalysisの最良の読者であるわけだが、この本では歴史的な視点からそれに批判的で、あくまでgenderなりfemininityをconstructするinter-subjectiveなstructureとしてthe castration complexとかthe Oedipus complexを理解していたFreudとそれをradicaliseしたLacanと比較されて、Kleinなどがfemininityをsomething pre-givenなものとして理解していた点がわりとシムプルに記述されているが、それはそれでおおいに正しくて、いわば第三項(去勢)のなき「想像的なもの」に退行していると言っても良いのだけれども、たとえば数年前に日本でも話題になった「母娘関係」(の地獄/極楽=享楽)みたいなことを臨床的にベタに問題にするようなテクストを読んでいると、この説明があまりも正しく見えてくる(ついでに言えばRoseの後期Lacanに関する解説もSUNY方面のそれに比べるとやや見劣りがするし)。眠れぬ夜中につぎのものなどを眺めていた雑感であるが:

母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)

母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)

ユリイカ』の特集における上野千鶴子フロイト批判があまりも「社会学」しているのは相変わらずだが、そのあまりに明晰な実証主義にかなり説得されながらも、それゆえにこそ精神分析のそれもクラインなどのactualityがかえって実感されてくる。精神分析非歴史的な歴史性みたいなものの臨床的なefficacyまで実感されてくるのは嘘のようだ。この言説的な残余って、批評理論=隠喩としての「精神分析」が消費されてもまだ残存するsomething persistentなものであって、まあしつこいけれどもこの実感があって(分析の経験などないのに図々しくもあるが)まあものを書いているようなものだし、それを詩的(文学的)表現で言っても仕方ないので変な逆説めいた文章を綴っているのだけれども。

そういえばぼーっと最近のここでのエントリーを見ていたら、間違いが見つかった。ソウルでの学会がありJamieさんの本務校はDuksung Women's Universityであった。土曜日の学会が午後2時からありそれまでは完全に放牧されていたので学内とか近所をたくさん歩き回ることになりかなり面白い体験となった。

つらつら雑感のままにという感じだと、Juliet編集の雑誌に載ったあのエッセイ、タイトルにもともとあったJeffrey Mehlmanは想定されるアメリカ人研究者にさほどなじみがないという理由で削ることになったのだが、そうなのか、あまり問題になっていないのだなあ、やっぱりみたいな感想をそのときに抱いた。