対位法的勉強?

今日もBLにて作戦続行。昨日触れた2冊の本の章を交互に読みみたいな変則的な仕事。ボルク=ヤコブセンも「個人」と「社会」という問題系から議論を出発。「転移」(彼によればそれは19世紀的な「催眠=暗示」の偽装ということになる)ということからして、フロイト的「個人」(場合によっては自我)はそもそも「社会=政治」と結びついている。最初期の仕事(『草稿』)にも間主観的な転移=同一化による「群集」論的な関心の萌芽がすでに見えている。そしてそれは強力な情動的な同一化によって駆動される(それは前エディプス期の自我の形成(口唇期)にすでに妥当する)のだから、その関係性は潜在的ファシズム的な様相を帯びているのであり(トーテムとタブーなどを参照しての議論)、またその情動構造はフロイトを中心とした(彼を転移の特権的な対象とした)精神分析という制度そのものの構造に連続することにもなる。それゆえに、その強烈な同一化は結局のところ「個人」と「社会」という差異を溶解させてしまい、つまり精神分析は、個人が個人自身が同一化した対象=自身に同一化するというナルシシズム的空間から逃れることができない。なるほど、たしかに。

その理論上の「失敗」をボルク=ヤコブセンは非常に否定的に読む。一方で、この個人と社会という問題において『近代の悲劇』のRWはいささか文脈は違うけれども、フロイト的な失敗を(「フロイト左派」を念頭に置いて)「経験」=「近代の悲劇」の代表例としている。ボルク=ヤコブセンはとても正確かつ精密な読解をしており重要な箇所では小生が自著で強調したところとかなり重なるところもあるのだが、結論は「真逆」(笑)。つまり、なにを思ったかというと、自分がまさに「近代」の諸言説の「残滓的なもの」として精神分析を読んできたことを再認識したということになる。ボルク=ヤコブセンが精緻な読解によってあぶり出すフロイト的な「転移空間」のintensityそれ自体が、近代の政治的な空間における「残滓的なもの」であるのかもしれない。これは「分析」というテクノロジーが可能にした(そこに「暗示」という19世紀的な「残滓」はあるけれども)20世紀的な情動の強度であり、それはより広くテクノロジーにより生産される間主観的(政治=情動)空間として文脈化されるべきものではないか。そして、それはたぶんRWが問題にしているフロイト左派の修正主義ではなく、RWの「感情構造」論を通じて見えてくるフロイトの「情動空間」のことになると思う。たしかに『近代の悲劇』を通過した後で読むフロイトという線もあるなあ。大きな感情構造の変化(というか裂け目みたいなもの)という「経験」においてこのフロイト的な「情動」のintensityのヤバさを見ないことにするとすればそれはまさに「抽象化」ということになる。そういえばフロイト精神分析への自身と弟子たちのコミットメントについて「運動」とか「大義」という政治的な隠喩を好んで使用していた。「情動」とはこの意味では定義上「政治的なもの」である。

BLでPCの盗難が最近あるそうである。ロンドン大学関係の図書館だと5分席を離れるとPCなど跡形もなくなくなるのは知っていたが、BLも危ないらしい。どうか同業者のみなさん、お気をつけください。