再読に値する本の再読

昨晩あたりから名古屋方面作戦用の研究書の再読。再読に値する本の再読。この本もう何度も読んでいるが念のために。この機会に自分のこれ関連の仕事のスタンスの再確認と将来書かれるイントロを考慮してのこと。昼まえに学童保育のための父親面談。帰宅後1泊用の身支度をしてから大学へ。途中の東横線井の頭線は各駅停車で座りながら再読続行。やはりこの分野での白眉ともいうべき研究。_Twentieth-Century Literature_に出した論文は基本的にはこの本からtake my own cueしたわけで。研究室に遅くまでいるので遅い昼食のために吉祥寺駅内のカレー屋へ。旨くないことは知っているけども。案の上、もたれる。大学に着くとメールボックスに注文していた本が山積みになっている。アマゾンのマーケットプレイス、とくに米国の古本屋関連はinvoiceでは個人研究費の請求にならないことを迂闊にも最近知り(注文時の「受領書」もダメだそうで)クレジット・カードの請求書じゃなきゃだめで不便。こんなことは常識なのだろうが、都立大時代は個人研究費で書籍を買うという文化がなかったし(そもそもアマゾンは不可)。そんなこんなの事務処理とかリレー講義のレポートの採点とかで瞬く間に大学到着後2時間くらいが経つ。ともかく今年になってからも何かと慌しくイライラが募るばかり。実は来年度の11月(つまりは今年の11月)に支部会で招聘するという形にしたカリフォリニア方面のフランス文学系フェミニズム精神分析方面の或る方のワークショップのオーガナイズもそろそろ具体的に考えなくちゃいけないが、英語で細かいやり取りをする気力がどうもまだ沸いてこない。これも名古屋方面作戦の終了後になるだろう。このエントリーの入力に要した時間、約5分。無駄な時間だが少しは気持ちが整理できる効能も捨てがたし。

追記1:しかしこんな記述を読んでいると、20世紀とかの英文学やっている人間にすり込めれている精神分析のイメージって英文学やっているのにフランスのシュールレアリスム系統の「芸術は爆発だ!」風の典型的な疎外論的かつフロイト左派的なほうなのだよね。この前の研究会@三田でも究極のrationalityとしてのirrationalityあるいはrationalityの過剰としてのirrationalityといった(まあ超自我のパラドクスと言い換えてもよい)クライン=フロイト的パラドクスがぴんとこない感じがあって一驚を喫したっけ:

Whereas in France the psychoanalytic movement dismissed Freud's death drive, in Britain those who were influenced by the work of Melanie Klein (who arrived in England in 1926) were quick to latch on to her all-encompassing thesis of aggresivity.

死の欲動という概念ならぬ概念が示唆する問題系と「理性の暴力」などという話は「文学な」人にはダメなのかもしれない・・・でもこのパラドクスを回避していたら「近代」なんかてんで理解できないだろうけども。じつはこの問題系とド・マン・・・いやいや暴走している場合ではない。

The Destructive Element

The Destructive Element

追記2:上の引用だけだとあらぬ誤解もありそうなのでさらに引用すると:

This is Klein's negativity which, as Jacqueline Rose has recently demonstrated, not only has a proximity to Lacan's reading of the negative logic of the symbolic function, the alienation at the core of the constitution of the subject, but makes it difficult to sustain the charge that the death drive in Klein is some kind of instinctual reductionism.