批評ということ

昨日の2月の風物詩作戦終了後やはり疲労は否みがたく研究室で特に勉強もせずに帰宅。帰宅直後に保育園に車でお迎え(1日中立っていたのでさすがに脚が疲れた)。担任のアリマツ先生のお話では2月3日ということでひかり組で豆まきをやり青鬼に扮したわが愚息、このコスプレになぜかいたく興奮し、その後のお絵かきの時間でもその興奮がおさまらずに、なんとパンツひとつで踊り狂い周囲の6歳児の顰蹙を買ったとのこと・・・いかなる遺伝のなせるわざか。夕食がボルシチだったのでしかるべくミドルボディーの赤ワインを買ったところ(本当はロシアかウクライナのワインといきたいところそれを購入するまでの気力はなく近所でイタリア産としたが)これがうまくいきほどよく酩酊。昨晩は勉強せずに熟睡と言いたいころだがじつのところは悪夢に苛まれる。本日はいつものように子供を保育園に送った後は家事をいささかサボり、午前から再読に値する本の再読。特に大戦間期のイギリス批評(Eliot, Richards, Empson, Fryなど)と同時代の精神分析との間テクスト性をめぐる水際立った読解にいまふたたび興奮する。この議論については以前にid:shintak先生が行き届いた解説をしているし、小生も『英語青年』(2009年1月号)に書いたエッセイで部分的に触れている(あのエッセイいま思えば少々淡白に書きすぎたかなあ・・・)が。たとえばド・マンの「時間性の修辞学」などというエッセイを読むと、濃密かつ晦渋極まりないテクストを特に「美学=政治学」に関して生産した一般に「ロマン主義」と呼ばれる時代へのメタ・コメンタリーである制度的な20世紀の批評言語がいかに対象テクストのテクスト性=思想性を希釈し程よい「(お)文学」に還元してしまったのかが詳らかになるのだが、「大戦間」と呼ばれる時代がやはり濃密な晦渋さにおいて生産した言語たる「モダニズム」なるテクスト性もこれと正確に同じ運命をたどったのだなあ、という感慨をあらたにする。ここで話が少々込み入ってくるのは、この時代に生産された批評言説それ自体がその後の制度的な(英文学的)批評の原型となりしかも同時代の言語の(場合によっては自分自身の)真の思想性をほとんど徴候的に抑圧(=お文学化)したという事情による(アングロ・アメリカ系の「批評理論」として現在流通するあの言説もじつはこれと多くの共犯性を有する、だから「理論への抵抗」(ド・マン)となるじゃんよ)。このような「英文学」なる制度の制度性=お文学性(つまりは非「文学」性)の歴史性を批評するのが現代の英文学が発揮すべき批評性の最低限度のラインであるのは言うまでもない。とくにこの歴史的な脈絡での「お文学化」は有機体論の美学経由で最悪aesthetic stateにも通じる訳で、「お文学」の自意識の欠けた美学はじつは大変危険でもある。そのように「大戦間」を読むとき精神分析に潜在する批評性、特に「死の欲動」の両義性、つまりは人口に不幸にも膾炙してしまった「お文学化したフロイトフロイト左派」ではなくフロイトとクラインのテクストそれ自体のテクスト性ということが問題になる次第とか・・・要するに持論再説ということで。すいません。

追記1:上の文脈で批評的な可能性に満ちているのはEmpsonである。彼のテクストは今後楽しみな読解対象である。名古屋方面作戦では「つかみ」としてEliotの意外な可能性に触れる予定。精神分析的テクストよりも精神分析しているEliotということで。Maud Ellmannの『荒地』読解、「快感原則の彼岸」している『荒地』という魅力的だが難解な解釈がそういえばあったよね:

The Poetics of Impersonality: T. S. Eliot and Ezra Pound

The Poetics of Impersonality: T. S. Eliot and Ezra Pound

追記2:夕方はコーディネイターという責任上コール英語2クラスの採点。半分程度はマークシートだがそれに記述式の点数とか平常点を加算したりして結構面倒だがいちおう終了。ほかのクラスとの調整はこれから。