the reason of/for war

名古屋方面作戦用に前に触れたJacqueline Rose本の第1章'Why War?'をたぶん再再再読くらい。これについても今年の始めにid:shintak先生が論じているが、この章の結語としての'the ethics of failure'ということがやはり大事。the absolute knowledge of truthをひたすらに希求するreasonの暴力としての戦争。そうreason killsということ。つまり理性の(過剰としての)暴力ということ。その含意として当然reasonというimpossibilityの耐え抜きとしてのcritical patienceということがあらためて問われる。その脈絡でtextual death-driveの抑圧/解消としての戦争という視点も出てくる(死の欲動の抑圧/想像的な解消としての戦争ということ)。こうしたパラドクス/プロブレマティークのテクスト的露出としての「戦後」ということ、あるいはその「戦後」の外傷性ということ。まさにその典型的な症候としてのエリオットのあの「ハムレット」(1919)。エリオットが示したあの鋭敏すぎるtextual failureへの戦慄とそのimpatience。そこから再読する(べき)「伝統と個人の才能」における有機体論の巧妙。その自由放任への憎悪と「伝統」という通時性の遡及的な構築/誤読へのエディプス的熱望。恐らくはそれと併読し得るのは、部分欲動のエディプス化=genital化をその「戦争」論で口にするフロイトなのでは:

Likewise Freud, to go back to the exchange with Einstein, talks of the advance of war in terms reminiscent of the gradual completion, cohering, mastering of the polymorphous or partial drives: 'Hitehrto, the unification created by conquest, though of considerable extent, have only been partial [sic], and the conflicts between these have called out more than ever for violent solutions' (SE 207). Unification becomes a necessary violence like, we might say, the subordination of a partial, multifarious, or even perverse sexuality to the dictates of one-track, singular, and unified genital sex. (Rose 35)

こうした問題系において「モダニズム」「精神分析」「大戦間」を読むこと・・・などと言っている訳だが、まあ年を跨いで書いたストレイチー論も結局は同じことを論じている訳でして。今晩くらいから読み原稿を書き始めることができるかも。まあ、いくらなんでもそろそろ一定のパースペクティヴが見えてきたなあ、ここ数年の自分の仕事の。制度化したクイア論ではないつもり。しかしこんなテーマでやっているのに、去年の1月のペイパーはいまだに揶揄の対象になっている模様。なんというか「批評理論な歴史派」の学会官僚性はじつに微笑ましい。

というようなことを妄想していると13:00になったので朝食の残りで軽い昼食。と思っているとT辺先生からお電話。リレー講義の小生宛のレポートがほかの先生へまぎれてしまいそれが戻ってきたとのこと。土曜まで大学に行かないのでファックスで送ってもらう。法学部の学生のようだがとても思弁的なことが書いてある模様。だがその前にコール英語の最終的な評価基準の微調整が決まったのでそれをもとにした点数を出さなくてはいけない。しかし土曜日の教授会、科会がこの日ないようなので「あ、忘れてた!」と空とぼけてサボるという悪巧みをしていたのだが、T辺先生の電話とのやりとりではっきりとリマンドされてしまったから困った。よしこれから成績をつけるぞ、と思ったら12チャンでケビン・コスナーケネディーの補佐官をやるキューバ危機の映画が始まりなんとなく最後まで観る。特に感想なし。まあ「戦争」つながりということで自分を許す。

追記1:たしかに悪童なところがあるが、愚息のことで至極屈辱的なことがお迎えのときに。こういう屈辱も親をやっていないと味わえない人生の醍醐味ではある。でもこちらには子供への根本的な信頼があるからね。しかし、あなたね・・・少しはご自身の子どものことを・・・いやいやこれは親をやっている人生の醍醐味のひとつだ。でも、ことは子供のことである。この屈辱を忘れることはないだろう。

追記2:ゼミの期末レポートで『ダロウェイ夫人』論が次々と添付ファイルで寄せられているが、なかにN島先生の『美神と宿命』を参照しているものがある!!う〜ん・・・。しかしこのウルフ論、多くの留保をもって言うが、日本語によるウルフ論のなかで再読に値する本のひとつであると思う。そんなことをいえば小生の卒論の仮想敵はこの本であった・・・とか述懐すると特に某茨城方面の先端的な英文科出身の友人たちに唖然とされることがあったがそれも仕方あるまい。小生が卒論を書いていたのは80年代前半@三田であったのだが:

う〜ん。でもあんなに丁寧な解説をしてわりと新しい2次文献のビブリオを配ったのにね。