すでにして今年のベスト・・・

新年度にむけたキョーム委員的な業務の合間に細見本を読了。すでにして今年読むだろう本のベストの一つに入るはず。去年のベストの間違いない一つであったアガンベンの『例外状態』と当然呼応しながら。というか今の職業を「倫理的に」継続しものを考えていくつもりならば(かなり殊勝な気持ちでそのつもりだが)1年単位でのベストというようなことではないだろう。「作家は行動する」などという水準に矮小化される「言葉と政治」ということの途方もないアクチュアリティにかなり圧倒される――「言葉を欠いたもののこの領域が言いようもなく純粋な夜に自らを開示するところにおいてのみ、言葉と胸を打つ行為のあいだで魔術的な火花が飛び交うのであって、そこに、等しく現実的なものであるこの両者の統一が存在するのです」(275)。「批評」とは「そこ」にあって「神的なもの」の「裁き」の絶対性に慄きながらこの上なく唯物的/形而上学的な水準で実践される「翻訳」行為であり「そこ」にしか「政治」はない。そして、その脈絡における「(純粋)暴力」ということ。しかし去年メールマンの『革命と反復』の解題をした際に苦し紛れに「超越論的唯物論」などと口走ったが、あの段階で仮に細見本を読んでいたら(時間的には不可能だが)もう少しまともな話ができていたかもしれない。というかあの話をなんらかのエッセイにする可能性が見えてきたのか・・・。「そこ」における実に峻厳なベンヤミンによる近代批判とド・マンとの接続ということで明日は各種用件が渦巻く中でド・マンの「アイロニー」について最低限度の復習か。

注記:上で引用した箇所は「あとがき」にまさに本文との絶妙な「星座的布置」として引用されたベンヤミンの書簡からの一節である。
注記2:細見本を読みながら『日本の家郷』における福田の三島読解を再読したくなってきた。まさに「言葉と政治」という脈絡で。ちなみに「作家は行動する」とは江藤の初期の書物の題名でもあるが、その江藤はどこかで「危険でない思想など思想であってたまるか!」と啖呵を切っていたことを思い出すものの、江藤ほど「危険でない思想家」は珍しい。その点で福田の「危険」への感度は比較にならない。それをマーケッティングと言うか言わぬかは別にして。