理論への抵抗

あの、先日のエントリーについて誤解をまねきそうな記述をしたのでちょっと。あの晩のセミナーで「具体例」を迫った質問はかなり確信犯的なものであって、その執拗なpositiveな質問がかえって直接的に表現できないところnegativityを浮き彫りにするような効果があったので、まずはそれ。それについてはすでにshintakさんが示唆しているが。

つぎにド・マンの「理論への抵抗」について。このタイトルだけをみて「やはりド・マンのような理論家は文学好きの理論アレルギーを理論への抵抗と軽蔑しているのだ」式の早とちりがvery possibleなのでこれについても一言。ド・マンはむしろ「理論」(と呼ばれる=隠喩化される言語)が自らに「抵抗」をしてしまう次第、そういった「理論」的必然性/不可能性を詳らかにしているのであり、「理論」が不可避に自らに「抵抗」してしまう「理論」の言語的=修辞的な不可能性こそがliterary=literalなものであるから、「理論」vs「文学」という隠喩で思考すること自体/事態こそがまったく「非文学」的なことであるということになる(この修辞的不可避性/不可能性への抵抗という点でむしろそれは「理論」的な営為である。「文学」派は「理論」派である。)「理論」は自らを全うしようと「理論」的に精緻になればなるほど自らに「抵抗」してしまうのだから、むしろ「理論」の過剰(その不可能な全う)こそが「文学literariness=literalness」ともいえるわけで、つまりこの種の隠喩系(文学vs理論)はテクスト的に破綻している(あの「文学理論」という言い方に僕が抵抗をどうしても感じるのはそのtautology的(あるいはまったく同時にoxymoron的)な倒錯感/過剰のせいかもしれない)。あるいは隠喩としての「文学」はじつは文学の隠蔽あるいは文学への抵抗であるともいえる。この水準というか強度でテクストを読(み損なう)ことを回避する時に同時に回避しているのが「歴史」なり「政治」であって、つまり昨今の表象という名のイメージ分析による「政治的/歴史的」読解はじつは「政治/歴史」の回避に過ぎない・・・だからこの文脈でカール・シュミットとかベンヤミンの導入が有効であったり・・・とかいう話は御茶ノ水のあの空間だとあまり違和感もなくできるのに・・・。