業界のこととか

木曜は午前中に家事的雑務をこなし4時限に授業。5時限にKOからT先生がいらしてポーについて講演をなさるので出ようかと思っていたら、教務関連の仕事がいろいろと振ってきて断念。で、研究室で国立方面作戦の最終微調整をしていたら18:00過ぎにS河辺先生がいらして懇親会に誘ってくださる。ということで正門左側のサブライムというなかなかのバーに出かける。T先生と長時間お話しするのは久しぶり。またKOの院生とか吉祥寺の院生とかあと法学部長でアメリカ外交史研究で有名なN先生とかといろいろお話する。その中で業界関連でかなりディープな話題が出るが小生はほぼすべて初耳。業界の中心付近のいるつもりであったが、こんなにもゴシップ的に無知とは、とか思う。また吉祥寺の大学にはアメリカ研究の系譜が底流としてあることに気づく。そういえば茗荷谷のT村先生とか茨城方面のM本先生がかつていらしたわけだし、たしかに。

国立方面のために次の本のイントロだけを電車の中とかで読む:

The Rhetoric of Failure: Deconstruction of Skepticism, Reinvention of Modernism (Suny Series, the Margins of Literature)

The Rhetoric of Failure: Deconstruction of Skepticism, Reinvention of Modernism (Suny Series, the Margins of Literature)

う〜ん、なんというかよくあるおバカ系のデリダ批判の批判なのだけれども、つまりはrhetorical excessというtextual failure/impossibilityにおいてわれわれが遭遇するradical alterityという話から脱構築の倫理という話になり、だから「歴史」とか「政治」からの逃避というmodernist aestheticsと脱構築を同一視するのは間違いで、むしろits radical impossibilityをテクスト化したカフカとかベケットの言語と脱構築とが共有する思想性がそこで前景化される・・・みたいなお話で、まあたしかにお説の通りですが、特に刺激があるわけでもないような。まあ、とても鋭いことが書いてありそうだけれども、難解でイマイチよく分からないという本でなくてよかったみたいな安易な気分にもなる。

職場でサバティカルの規定が若干変わり2012年までの順番を学部で決めることになったのですが、小生の順番が案外早いかもしれないことが判明してとても嬉しい。1年でも早くイギリスに脱出して気が狂うほど勉強がしたいわあ。

ここでもリマインダーです:

研究プロジェクト「トランスアトランティック・モダニズム」研究会(講演)
日時: 2009年7月4日(土) 16:00〜18:00
場所: 一橋大学 東キャンパス国際研究館4階大教室 地図 (地図32番の建物)
講師:遠藤不比人(成蹊大学
司会及びコメント 中山徹
事前申込み: 不要
講演題目および内容:

「イギリス・モダニズム文学と精神分析――その間テクスト性の再吟味」
フロイトとウルフとエリオットのテクストが第一次大戦後に――実証的な影響関係をはるかに超えた強度で――共有してしまった「暴力」と「性」をめぐる言語について再考します。たとえば『快感原則の彼岸』(1920)以前にこのメタ心理学を実践してしまったエリオットの「ハムレット」(1919)、フロイト以上にフロイトのエディプス・コムプレックスのクイア的な不/可能性を言語化してしまったウルフの『灯台へ』(1927)・・・いま私たちはこういった強烈かつ濃密な間テクスト性をどう読むべきでしょうか?というような問いを「戦争」論といった脈絡でも問うてみたいと思っています。


どうぞみなさんいらしてください。

追記:昨日の授業で発音の「リエゾン」の話をしていて「いいですか、みなさん、これはリエゾンであって、リア・ディゾンではありません」と言ったら学生がどん引きだったので口惜しいから90分で5回くらい繰り返したら、本当に学生が固まってしまった。あと昨日のバーで「ホーソン研究」が話題になりホーソン研究史のタブーみたいな話になったから「これが本当のホーソン禁止用語」と言ったらT先生に妙に感動されてしまったが、S河辺先生は能面のように無表情でらしたのでけっこうビビった。

そういえば、次の本を頂いたのですが、なかなか面白そうです:

昨日の話のなかでどうして「アメリカ」研究は盛り上がり学生の人気があるのに、イギリス研究はそうでもないのか?という疑問が重要なモティーフだったのですが、アメリカ文学の研究者にはこの感じがどうもあるらしい。将来英文科の生き残りのためにイギリスをトカゲの尻尾切りのようにリストラするアメリカ研究という構図もあるかもしれない。なぜ「イギリス」か?という疑問に明確に教室で答えかつ説得力がなければやはりだめだろう。私は20世紀前半までに関してはこの点に関してconvincing enoughである自信があるのだが・・・。