イヴェント@国立

すでにこのイヴェントにご招待くださったN井さんとご同僚のshintakさんが懇切なコメントを下さっているが件のイヴェントが終了してともかくひと安心。

N井さんへの私信(メール)でも申し上げたことだが、ここ数年とくに精神分析関連で国内外でペーパーを読んだりすると自分の予想以上に評価してもらったりすることが多かったもので、いささか議論が独りよがりになってもいたのではないかと、当日のコメントを伺いながら痛感する。すこし自身のプレゼンの仕方というか戦略に居直っていた気味があったのではないか。つまり「わかってもらって当たり前」というような尊大な気分があったと思った。これはid:shintakさんがご指摘のポイントだが「インターテクスチュアリティ」についてまずはそう思った。引用させてもらうと:

インターテクスチュアリティの肝というのは、「当時の」間テクスト性ということではなくて(それだと氏の批判する実証主義から逃れられない──というか、そもそも「インターテクスチュアリティ」には実証不能性が折り込まれているのだが)、現在の我々がそのテクストの織物に織り込まれた存在であるという点

この点についてはshintakさんの水準の理解が暗黙に共有されていると思ったのがじつは思い上がりであって、特に院生の方から実証主義的な次元での疑問(それって証明できるですか?)および新歴史主義的良心(文学と精神分析の相同性といいながら結局後者がメタ言語となっていませんか?)からの質問に懇親会のときにもお答えしながらそう痛感した次第。とくに後者の疑問についてはちょっと困った。やりたいことは「理論」化した精神分析の諸概念の解体する様と同時代の文学言語における「過剰」をいわば「同列に」読むことなのだが、でも結局精神分析の概念を使っているじゃん、という疑問には正直いって答えようがない。この種の質問は「新歴史主義」のパラダイムそれ自体が特権的なメタ言語になっていることに自覚的でないことに由来するのかもしれないが、それもやはり説得しなくてはいけない。モダニズム精神分析というテーマでの水際立った読解については次の本をぜひ(新歴史主義なんか吹き飛びます):

The Culture of Redemption

The Culture of Redemption

とくにクラインとプルーストの「間テクスト性」についてぜひ。といいながらベルサーニの権威に頼って自分が説得できなければ負けであります。

またN山さんのコメントにもきちんと答えるべきだった。エリオットの言う「客観的な相関物」の欠如とは、あるナラティヴが自らが依存する論理なり修辞(具体的には「心理学」的言説)によって自らが語ってしまった「情動」を説明できないという意味であるから、それはナラティヴ=心理学に回収できない欲望的な「過剰」(=欲動)ということを含意するのであって、E藤さんは「エディプス心理学」で解釈できないと現に「解釈」しているのではないですか?という突っ込みにはこれも正直困った。ただその一方でウルフのセミコロンというテクストの「表層」にまさにこのテクストのアポリアが物質的に露出しているというご指摘にはわが意をえた次第。というかN山さんの一連の介入に痛感したのが、ここ数年同じテーマを書き続ける私自身の言語というか隠喩系がマンネリ化しているというというキツイ事実であった。

あと「バイオポリティックス」と精神分析の共犯性というフーコーのテーゼからして「戦争」を「死の欲動」の抑圧と読むお前の読解は理解できるというM浦さんのコメントに直接お答えしたように(懇親会で)じつはフーコーはこれを含めたフロイトへの彼の(公式)見解からまさに「逸脱」するテクスト性を露出するのであって、それについてはデリダの「フロイトに公正であること」というエッセイを紹介しておきます。次の本に収録されています:

精神分析の抵抗―フロイト、ラカン、フーコー

精神分析の抵抗―フロイト、ラカン、フーコー

フーコーが雄弁にフロイトについて語ったことよりは、ほとんど「口ごもった」ところ、そういったテクスト性というかパフォーマティヴな水準を私自身はどうしても気になるので、つまりは、フーコーのコンスタティヴな言明から出発する基本的に「新歴史主義」的な「良心」への「悪意」がやはり私にはあるのでは?とかちょっとばかり自覚しました(フーコーの口ごもったところに彼の「リベラル・ヒューマニズム」がほの見えるのでしょうか?)。

しかし、あれだけ手ごわい面々からの「突っ込み」の連続、正直いって自分の仕事を見直す絶好の機会になりました。たんなる「M」趣味ということではぜんぜんなく。まあその晩に「M」は当然歌ったのですが。

いやいや、ペイパーを読んでこんなにレスポンスがあるのは本当に久しぶりだった。どうもお世話になりました(冷汗)。

追記:今日は本来は研究日なのだが新カリ関連の会議のため午後から出勤。そのためのエクセルの資料を作ったりして半日は「研究」できない。新カリのほうは少なくとも文学部の英語については最低限度の見通しがつく(?)。甘いかも。今週も各種公務が押し寄せてくる。しかしまずは翻訳。次に8月末締め切りの羅漢協会の論文(今日の電車の行き帰りでその端緒をつかむ)。10月以降の北米関連の準備もそれと連動して。帰宅後は池袋の予習を夕食後に。明日が講義は最後だが、ノリスの本についてはあらかた要点については語ってしまった。最後の締めですこし按配を変えようか。しかしなんとも忙しい。