タナトス批判

授業の合間やら研究日に各種委員会があり週末には各種イヴェントが入りながら次のイヴェントの準備をするという呆れるようなポストフォーディズム的なフォオーディズム(流れ作業)として、8月末締め切りの羅漢協会のための論文と10月のペンシルヴェニア遠征とを連動させるべく電車のなかでこれを再読中:

憂鬱な国/憂鬱な暴力 ― 精神分析的日本イデオロギー論 ―

憂鬱な国/憂鬱な暴力 ― 精神分析的日本イデオロギー論 ―

この著者による三島の「文化防衛論」読解は僭越ながら小生の読解とほとんど重なりながら最終的な地点で結論が逆になったりする。つまりとても参考になる。「無」としての「象徴天皇」に三島の「タナトス」を読むという批評に介入をするためには、「エロス」と「タナトス」といった誠に近代的かつロマンティックな二元論を前提にこの二元論それ自体――つまりはエロスとタナトスという隠喩系による根源的なパラドクス(=外傷)の美的解消――の典型たる三島の美学を批判するという小林的な同語反復を断ち切るためには、やはり「外傷」的反復たる「死の欲動」ということをふたたび言わなければならない。「個=瞬間」の「死」が「全体=永遠」に回収されるというがごときシネクドキー構造をこの二元論は担保するのだが、先日のエリオット的「伝統」でいえば、それ自体が「外傷」たる「個」が事後的に「全体」=「永遠」の「部分」を再外傷化することで「個=永遠」というシネクドキー的かつ弁証法的全体性それ自体が外傷的な不可能性を「そのたびごとに」露出することになる。これは定義上すぐれてアレゴリー的な事態であるだろう。エリオット的な「伝統」の外傷性=アレゴリー性と「万世一系」というシネクドキー=シムボル構造との峻別をしなければ仕方がない。しかしここで実は厄介なのはこの前いちおう同人誌用に脱稿したことにしてあるエッセイで触れた「根源的な否定性の唯物論」ということで、三島はこれを単に強迫神経症的に回避しているとして、たとえば保田の言語についてこれは・・・。

パラドクス好きの三島の非パラドクス性=強迫神経症については次の本があっけらかんと本質的:

「文学」の精神分析

「文学」の精神分析

これからあらためてウルフのセミコロンがシンボルと同時にアレゴレカルな「物質性」を露出しているというN山さんの指摘は鋭い、とふたたび意を強くする。

追記:自宅玄関前のマットが2回連続で盗難にあう。困ったというか不気味である。

追記:外傷的な時間性/不可能な同時性とシムボル的な同時性との差異をエリオットの同時性への執着に(パフォーマティヴに)読むこと。