場ということ

いつものようにid:shintakさんがすでに簡にして要を得た記述をしているが、昨日は目白で極めて刺激的な場が生じた。夏休み明けくらいに発刊が予定されている同人誌の創刊号に掲載予定の「討議」を、TAGTASのS水さんとパフォーマのH野さんにゲスト出演していただき録音する。想像以上に知的刺激に満ちたものであった。お二人の存在=プレッシャが大きかった。

やはりポストフォーディズムが主要な主題に。この資本主義的な形式の重要な特質として「心理学化」というものがある。人間の「心」を「本能」にいたるまで隅々まで「心理学化=データベース化」することでそれを搾取し去るわけで、現在テレビやら書物において大量に消費されている言説を思い起こすだけでその傾向は明らかであるだろう。その中には「病理学化=心療内科化」も含まれるわけで、その「診断」により「鬱」が言説として生産され、それにより労働(者)が選別=差別されもする。この背景にあるのは無論19世紀型の科学主義=実証主義的な楽観あるいは傲慢あるいは(小児的?)万能感であるだろう。人間の徹底的な人間化=科学化=心理学化(あたりではこの科学化され心理学化された人間が大量に生産され消費され搾取されている)。そしてこの人間化=科学化=心理学化されぬ残余を想像的に解消=搾取しているのが「脳」をめぐる多くの言説=饒舌ではないか。この隈なき「人間化=心理学化」に抵抗する「人間化され得ぬ非人間的な人間性」という領野があるのではないか?

これもshintakさんがすでに触れているが、ここで重要なのはまさに資本主義的な運動の根幹にある「反復」という問題系である。オブセッシヴに「差異」を生産しつつそれを搾取することで自らの延命=反復を求めるこの構造/歴史に回収できない「異物」として、まったく「同じものの反復」あるいは「差異なき反復」つまりは「外傷」を想起してもよい。「出来事」が二次加工=差異化=記憶化されることで過去は過去になり歴史が可能になるわけだが、外傷とはこの二次加工=差異化=過去化なき反復である。この時間性は「異様」であるし「心理学化」を拒むものである。ちなみに精神分析はこの「心理学化=実証化」を見事に「失敗=経験」することで精神分析となった。そこにあるのは良心的=制度的=官僚的な心理学者なり(脳)科学者なり(お望みなら)英/文学者が怖気をふるうような非科学的かつ非実証的な「思弁」である。しかしこの世界にはこの「異様さ」がまさに反復している、ほとんど「超越論的な唯物性」とでも呼ぶべき「不気味さ」をともなって。ちなみにこの非人間的/機械的な反復という強迫が「不気味」なのは、心理学化=人間化をつねに挫折させる「人間」の人間的な「根源」がそこに露出してしまうからではないか。

これを言語の水準で考えればド・マンの批評が想起される。「隠喩」とは「差異の同一化」という形式においてじつは「差異」を捏造しかつ「差異」を搾取する修辞構造でもあるのではないか。これが近代の「文学」なり「資本主義」を可能にする修辞的あるいは唯物論的な構造でありそれが生産する「欲望」であるとすれば、それを一時的にも「中断」し得るものとして「換喩 metonymy」を再定義することは可能であるだろうか。まったく同じものがまったくランダムに――歴史=ナラティヴに回収できない根源的な恣意性=偶有性contingencyをともない――反復(強迫)するという「異様さ」。ここで「隠喩」による「差異」の捏造と搾取とは「意味」と「価値」の捏造と搾取とも言えるのであるから、「換喩」的な「中断」とは外傷的非意味の唯物論的な露出ということになり、それは狂気=享楽という問題系に繋がるのか?(ド・マンは「諦念」の人ではなく「享楽」の人である)。

すくなくともかかる「異様」さに唖然とすること、それの「心理学化=欲望化=隠喩化=文学化」に執拗に抗うこと、じつは「世界=テクスト」にランダムかつ外傷的に露出/反復している「出来事=換喩」の「暴力」にまずは自らの(批評)言語を引き裂かれそれを吃音と化すこと、それを私は「文学」と呼びたい・・・。「差異」の捏造=搾取としての「欲望」を中断する「暴力=換喩」の外傷的反復としての「革命=(死の)欲動」・・・しかしこの構造がまったくランダム=偶有的に「反/革命」のそれであるとしたら・・・というような話を書きかつ討議をすることができた「場」が昨日の目白の一室であった。

この会を主催くださったK端先生からご本を頂戴する。ありがとうございました:

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

動物農場―おとぎばなし (岩波文庫)

ちなみに私たちもまっすぐ自宅に帰りました。しかし7月中は学務の嵐である。ぜひこれを「中断」して死ぬほど勉強したいなあ。サバちゃんも少し遠くなりそうだし、つまらないな。せめて鮨屋でしめ鯖でも食うか。

追記:ちなみにこの「暴力」に遭遇し圧倒され唖然とし批評的な主体=言語が「引き裂かれる」という外傷的な受動性こそが批評的な「アクション」=能動性の契機となるというパラドクスを「換喩」的に生きることが「経験」というステイタスなのだとあらためて思い、RWのアクチュアリティとか先日御茶ノ水で伺った「前衛」論の射程をを再認識したりとか。