後期開始に当たっての身辺雑記

木曜から後期が開始となり授業と事務仕事が時間を奪っていくなか「仕事」もしなくてはならない。学内の研究所の資金獲得が予想額をかなり下回る可能性が出てきて出鼻をくじかれた形だが、「日本」表象と「環太平洋」というその研究プロジェクトのためにH比野さんご推奨の次の本を雑事の合間とか通勤の電車で時間を見つけていま3分の2ほどを読む:

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ)

「左翼」「右翼」「反動」を単純化を恐れずにざっくばらんに分類する議論の出発点も奏功していると思う。また「超国家主義」的な政治活動がしばしば「グダグダ」になってしまう構造的な要因として「天皇」のパラドクシカルな時間性に注目するのも面白い。つまり「現在」への不満から出発した政治思想が「天皇」を特権化すると、「天皇」は「現在」の腐敗を鋭く前景化させる「伝統」の体現者であると同時に、その「現在」の絶対的代表者でもあるという矛盾が、そのアクティヴィスト的な言説と論理を混濁させるという議論が基本であって、これはかなり卓見であると思う。いま時間を奪われながら締め切りを過ぎても書きあぐねている論文では「天皇」は近代の矛盾を解消する装置として論じることが基本となっていて、いわば「政治」を解消する美的装置であるからこそ「天皇」が露骨な「政治」としての「暴力」を惹起する契機となる・・・というがごときパラドクスを書いているのだが、この本の議論から「天皇」を近代の諸矛盾を解消する装置であると同時にその矛盾を体現するものとしても読むことができることになってもくる。まあ、早く書かなければ。

来年度のコマとかが決まって来て来年度は「英文学史」の後半を担当することになる。つまり小説の勃興からイシグロまでみたいなナラティヴを計14回くらいでお話をするわけで「文学史」は「歴史」を抑圧するなどと喚いていたやつがこんな講義をもっていいのかよくわからないが、しかたがない。ただフツーにはやりたくないので、たとえば基本的にはマルクス主義的な英文学史にしてみようとか思っている。つまり小生の勃興については当然近代のブルジョワジーという話を山川の教科書風の「市民社会」とか論じても意味ないので、たとえば次の本を参照し語るとか:

クラリッサの凌辱―エクリチュール,セクシュアリティー,階級闘争 (岩波モダンクラシックス)

クラリッサの凌辱―エクリチュール,セクシュアリティー,階級闘争 (岩波モダンクラシックス)

もちろんセクシュアリティについてはこの本でディケンズとかジョージ・エリオット

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―

男同士の絆―イギリス文学とホモソーシャルな欲望―

階級とナラティヴ、19世紀的なナラティヴから「モダニズム」については:

政治的無意識―社会的象徴行為としての物語

政治的無意識―社会的象徴行為としての物語

それぞれについて3〜4回で10回程度。そのまえのイントロとして「英文学(史)」というナラティヴ自体のいかがわしさについてはこれで2回くらい:

「英文学」とは何か。

「英文学」とは何か。

問題は韻文が手薄になるということか。あとは必要悪としてのベタな「英文学史」的な知識の注入をどう機械的にやるかという点も。前者についてはゲスト・スピーカにお願いするか。

ただこれらの本を参照して吉祥寺の英文科で講義をしたことが断片的にあるが、語り方しだいでウケは悪くないという印象というか実績はある。

また「英米文学を読む思想」は通年でやるので、「当世英文科学生気質」の諸君をかなり組織的にアジることはできるかもしれない。この講義を半期やったら、それが契機となってゼミの希望者が定員をかなり超えたということもある。じつは最近の若者は「文学」に鈍感なのではなく、じつは「政治」に敏感である。ということはじつは「文学」に敏感なことになる。これはいいことだ。

刊行が近い同人誌の3校をやっと見る時間が今日あった。

追記:

あ、この本を忘れていた:

Culture And Society

Culture And Society

しかしどう講義用に調理すべきか・・・それが問題だ。