一瞬の間、気が遠くなる

土日月で国立方面の原稿を注以外は完成し、今週はその仕上げに。金曜が旧制7年制高等学校――成蹊、成城、学習院、武蔵――の伝統に由来する対抗戦のため休校なのでこの日に仕上げて送信し、その後は引き続き月末締め切りの職場の論集用の原稿に取り書かねば。論集のテーマは「文学とファンタジー」だそうなので、精神分析的な「(無意識的な)幻想」と文学の言語という話にし、具体的にはイシグロの短編における夢の「臍」みたいな感じになるか。手帳を見ると今月の後半は土日がほぼ埋まっていて一体どうすればよいのか。困った。やはり某ブログにあるように「朝活」しかないね。子供が学校に行く8時5分から約2時間程度に賭けないと。あるいは同時に何日か吉祥寺に泊り込むか。フロイトのテクストをまずはいくつかマジに再読しないといけない。これはいつもの楽しみ。

本日火曜は三田→池袋の遠征日。三田ではリヴィエールのテクストを半分ほど。無意識の言語の中に色々と同時代のレトリックが入り込む次第の興味深さを学生と共有する。リヴィエールというかBritish Psychoanalysisって最近の関心事の中心なのでつい説明にも力(リキ)が入り、また英語それ自体の語学教師的な解説も熱を入れてやったら、かなり疲労困憊。今年は火曜の出講にしたらイギリス文学のゼミと重なり受講生はアメ文の学生がばかりなので、来年度は月曜に移動してくださいと依頼されたので、来年度は吉祥寺も含めて月火水の週3日体制に戻そう。三田のちょっと高級な立ち食いそばやで天ざるを慌しく食したあと池袋へ。途中の田町→池袋間は途方もない爆睡。こちらではド・マンの『美学イデオロギー』が中心。よくできた編者序文を使ったイントロ。「厳密さの過剰」としての「修辞性の過剰=欠如」あるいは「その残余としての文字の散文的な物質性」とか。その脈絡でド・マンの晩年のプロジェクトとしての観念論としてのマルクス主義マルクスのシラー化)批判について。そんなことをいえば、僕たちの周りに矢鱈に浮遊している「批評理論」なるものだってさあ、諸君、これとまったく同類の観念論なんだから、こんなものにいちいち大騒ぎを(ポジティヴにもネガティヴにも)するひとって、要するに「文学」とは思い切り縁がない人間だよね・・・みたいな悪態をついてふと溜飲を下げる自分がイヤになったり。

リヴィエールとド・マンに関する予備校講師的な熱烈講義を三田と池袋で連続でやってみると学生の反応が良いだけにマジで疲労困憊。体が重い。帰宅し夕食を取りながら少々シャンパンなどを口にしたら瞬く間に酩酊し意識が希薄になる。途方ない疲労がどうやら蓄積しているらしい。あとは特攻精神で気力しかないか。

追記:明日は1時限@吉祥寺なので朝は6時起床・・・。今日の仕事はこれまでだ。