シムポがシビれた

昨日の支部会は開催校として裏方的な参加となったが滞りなく済みまずは安心。内容的にはシムポが優れていた(同時間のワークシュップも良かったそうだ)。チマチマ表象分析してPC的予定調和に終わる悪しき昨今のカルスタ的傾向とは無縁のstorng interventionの実践となっていた。Y口さんは茗荷谷フェミニストの立場を鮮明にしながらありうべき政治的選択を明言する。特に通説では1次大戦後の選挙法改正などが参照され(中産階級の)女性の「解放」が進んだとされる戦間期英米の言説的な布置にあって、家父長制がより巧妙にリベラルなレトリックを駆使して搾取の精度を高めていく次第を喝破したあたりを論じるところでは「Y口節」とでもいうべきプレゼン的強度があった。Sさんは一見「迂遠に」見えるテクスト読解の果てにルイスのテクストの綻びにラディカルなブルジョワ的近代=ヒューマニズム批判としての「情動」という問題系を炙りだす。それに「恥shame」という問題系も(しかもこの問題系がファシズムと交錯するあたりもヤバくてスリリング)。このラカン的な問題でもある情動と「近代批判」とがどう接続するのか、Sさんの他方で傍若無人ともいえる読解的な力技がこの点で今後の期待を大きくする。M浦さんはまさに「M浦節」ともいえるこれも一見したところノンシャランで投げやりな口調の陰で非常に緻密かつ稠密かつ粘着質な論理を展開し尽くした果てに野蛮で繊細な結論に突如(しかし必然的に)飛躍する。英米文学者の暗黙の解釈骨子=政治的無意識と冷戦期の北米におけるユダヤ系のリベラリズム(トリリング)という最近のM浦さんの問題設定はかなり射程が広い。M浦さんの議論への冷淡なり反発は古典的なフロイト的「否認」である。

懇親会は通称村山中華と呼ばれる吉祥菜館。やはり安くて旨い。小生は後片付けなどで遅参。同じく遅れて来たA部さんとかミッキー幹事長とかI澤さんとかT尻さんとかと店の端で歓談。小生は久しぶりの社会復帰であるがその分酔いが早い。特にT尻さんと話したのは、同じく支部会のワークショップでもって近い将来に「ジェイムソンをどう読んできたか/どう読んでいくか」みたいなテーマを追求するべき時期に日本の英文学会は来ているのではないか?ということ。私見によれば日本で英米文学を志す際の修士課程以上のレヴェルでの基本的なスタンスは「マルクス主義」的であるほかはなく(まともにやるのならば)、その意味でジェイムソンをどう読んできて/今後どう読んでいくのか?というワークショップをやる必要とその企画については、すでにM浦氏、shintak氏、takashimura氏、O田氏などともしている。来年の夏以降にひとつやろうか。じつをいうとM浦さんの最近の「冷戦」問題とこの問題意識は通低しているし、そのような一種の基本というか根本にいまいちど戻るべき時期に業界があることは間違いない。

2次会はM浦さん、Y口さん、I澤さん、U野さんと東急百貨店付近のバーへ。11:30近くまで。午前中の理事会あたりでは最悪の体調で肩の疼痛でひそかに冷や汗をかいたりしていたが、飲んでいるうちに違和感がなくなり、嬉しくなってその場の諸氏にカラオケを勧誘するが峻拒される。じつにつまらぬ。不機嫌である。仕方なく帰路につき自宅近くのバーでウォッカなどを。