おくればせながら打ちのめされました

吉祥寺の2年生用のゼミでは既成のナラティヴに「文学」を回収・還元してお文学にして安心する悪しき傾向(これって当然学生だけでなく業界の教員=同業者にも見られるのだが)をそろそろやめにするために「逸脱」とか「過剰」とか「反復」とか「もの」といった精神分析と濃密な関係があるテクスト的な強度と遭遇する機会をせっかくだからみんなでつくろうみたいなノリの演習をしていてイシグロの短いテクストなどを細かく分析しながらその分析のたぶんリミットで遭遇するのだろう或る「もの」であるとかそういう読みをしてきてそろそろ学年末なので映画のような映像テクストでこの遭遇をできたら凄いからたとえば君たちのこれまで観た映画でなにか希望はありますか?と聞いたらかなりの数の学生がクリント・イーストウッドの『チェンジリング』がいいというのでその段階で学生の多くが観て打ちのめされた映画を担当教員が観ていなかったのは情けない限りであったがともかく遅ればせながらこのフィルムをDVDだけれども観てやはり相当に打ちのめされましたのでそこでこのフィルムをやはり取り上げるためにまずはネットなどの映画ブログ系のコメントをとりあえずチェックしてみて驚くことすらできない気がしたのはこのフィルムに感動した言葉が「母の愛」とか「母性」なんて表現を垂れ流していることでこれを下に見るちょっとばかり気が利いたつもりでいるあるところではこのフィルムが「母性」に関する「イデオロギー装置」として機能するとか言っているのだがむしろこのごとき(互いに相補的な)ナラティヴが絶句を強いられるような(それゆえそこに回収という暴力が発動するような――まさにその意味でこの種のコメントはイーストウッドのフィルムに対する暴力にほかならぬ)むしろそのような「母性」なるもののリミット=零度が「もの」化するような(こんな言い方も暴力的ですいません)あるいはそれと同時にある種の根源的な侵犯性においてこの母が死刑囚を一瞬の間凌駕してしまうようなイーストウッドのlibertarianismをも当然凌駕するようなやはり根源的な絶句を強いられる(といいながらこの程度に饒舌なのもやはり暴力だ)もちろんセミネールVIIについてもゼミで言及しなければならないだろうしこのようなコメントのなかで唯一或る程度納得できたのはM台先生のブログのコメントであった


追記:上でいった「回収という暴力が発動」というのにはロスの警察権力やそれと結託した精神医学やあるいは母親を擁護した牧師や弁護士の言説も含まれるのはいうまでもない。まさにsingularityということ。

追記2:ようやく今まで届いた卒論ファイルの添削、とくに書式のチェックなどをたったいま終える。この書式で少なくとも一度はレポートを出してもらいやはりチェックしたのに複雑怪奇な間違いをする学生もいるので完璧に統一するのは無理でありそうだ。これで全体のまだ半分程度か。議論それ自体はなかなかにパワフルなものもある。