今年最後の・・・

来年早々の「心」と「性」をめぐるイギリス近現代シムポの個人的な準備が大幅に遅れているのでそれなどを自宅ではじめる。クライン派「母」をめぐる精神分析が戦後の福祉国家体制を補強しつつもそれとは別次元の或るものを蔵していた次第をやはり話すことになりそう。時間もないのでMary Jacobusの以下の本と以下の本が重要なところで参照している以下の本を参照しながら、上記の視点からWinnicottにおけるnegativityについて(JacobusはWinnicottがしばしば参照したWordsworthとの繊細な比較をしている):

The Poetics of Psychoanalysis: In the Wake of Klein

The Poetics of Psychoanalysis: In the Wake of Klein

ヘーゲル―否定的なものの不安

ヘーゲル―否定的なものの不安

  • 作者: ジャン=リュックナンシー,Jean‐Luc Nancy,大河内泰樹,村田憲郎,西山雄二
  • 出版社/メーカー: 現代企画室
  • 発売日: 2003/04/01
  • メディア: 単行本
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ちなみに前者における「詩学」とは制度的な読解に還元できない精神分析の「過剰=否定性=文学」を含意している。結局のところ精神分析的言説を文化史的な水準で語ろうとするとき、どうしてもこういう話になる。ちなみにジャコウブス的読解からすれば、ワーズワースの「詩学」も制度的な(お)文学に還元できない「過剰=否定性=文学」ということになる。まあ時間の関係からいって私の持ち時間は20分程度なのでほんのさわりのような感じになるか。ほかの正攻法から攻める文化史的議論とのコントラストを生産的=否定的に示すことができれば十分。また後者のナンシー本の再読をまさに元旦からすることになる。良い1年になりそうだぜ。

お約束どおり今年を振り返れば知的堕落の一言に尽きる(論文を5本書いたなんぞとは無関係というかそれゆえにこそより悪質)。吉祥寺的多忙(キョーム委員と新カリ委員と実に消耗を強いられた●●のトリプルはさすがに想像を超えた)をいいことにほとんど野蛮人化した1年でした(字義通りにも・・・)。或る意味では10歳若返ったかのような生活が一部あったが、そんなでは困るのでちょっとばかり反省をしてみたりもする(本当かよ)。来年はこれまでの仕事のまとめ系が主要な仕事になるが、次の仕事に繋がるような「知」の探求も同時にしなくては。ということで寸暇を惜しむ系の年に、とか殊勝な気分であります。

しかしそれにしても精神分析をマジで勉強しなくてはならぬ。

追記:文学と政治を想像的に癒着させる便利な隠喩が「文化」だとすれば、文学と精神分析と哲学の想像的な癒着を切断する(言語的な物質性としての)否定性=「詩学」は、前者のあくまで想像的な「文化」へいかなる介入を果たすのか、とか暫し妄想。あるいはその水準における「歴史」とは。やはり「時間性の修辞学」の再読か。

追記2:結局上記のナンシー本を読みながらの年越し。自宅の書斎から横浜港の霧笛が聞こえてきて年越しを知る。なかなかオツであるなあ。去年はたしか近所のバーでウオッカかなにか意識がなくなるまで飲んだくれての越年だったので、なかなかよい出だしであるのか。しかし9日のシムポまで時間がない。8日の金曜日の5時限はゼミでその後の晩の新年会はOKと学生に思わずいってしまった。まあカラオケへ回避して1次会で退散しよう。