週末の準備

今年度は木金と「研究日」だが、家事とか場合によっては昨日のような不良教員への対応とかで結構忙殺される。最初の勤め@赤坂のときのようにいっそ研究室に篭り居留守を使いながら勉強するのもいいかもしれないが、吉祥寺の電子キーのシステムだと開錠すると自動的にドアのランプのみならず、研究棟1階の名簿のようなところもランプが点灯するような作りなので居留守もできない(ノックしても返事をしないという手もあるが)。

週末の企画のためにここしばらくは以下の本を:

ハムレットの方へ―言葉・存在・権力についての省察

ハムレットの方へ―言葉・存在・権力についての省察

小生が英文業界の「歴史主義」批判をしたときなどshould have certainly mentionedすべき本であったのは確実。しかし内容が濃くなかなか読了できない。初期近代のイギリス演劇を専門にしている知人が多いので彼らから仄聞する最新の「実証的歴史主義」研究の成果からみると「実証的な」間違いは散見されるが、本書の眼目はむしろかかる「歴史実証主義」のブルジョワ性を鋭く指摘するところにある。かかる批判を体現するのがハムレットの「歴史的身体」ということになるのだが、この前も触れた本邦における人文科学のinstitutionalizationに関しても示唆するところが大であるなあ。すでにid:hidexiさんがこの本に触れている。業界の知的サロン化=ブルジョワ化への介入的な感性がないところにはやはり批評=思想=政治、つまりは「歴史」はないわけで、歴史実証主義が「歴史」の抑圧であることは言うまでもない。

本当はこの著者の本、複数注文して読むはずだったが、それも果たせそうにもない。

追記:ふと手帳を見ると今年の連休、授業の組み方からして、かなり長くなる。かなり復活してきたのでバルジ大作戦のタイミングはここだなあ。

追記2:上掲書にオフィーリアに関してたとえばこんな一節が:

 

 押収された身体が見る禁じられた夢、失われた<身体自体>の幻影は、強迫観念と化した審美的エロティシズムの幻影である。貨幣という不在の虚構は、審美的でエロティックな夢となって人間の感覚と想像力を興奮させる。結局、利潤動機自体が、そうした刺激と興奮を味わう機会への浮き立つような期待から成っているのである。この期待はまた、商品の不滅の美と魔術的な力に魅せられ、そのなまめかしい肌を愛撫する<純粋で完全な消費>の夢と別のものでもない。資本主義的な生産と消費は、幻想的審美的スペクタクル的な動機に操られている。そして人々は、たんに貨幣という食わせ者に騙されているだけなのではない。幻影の空しい追求は、自分の眼前に展開される商品の壮麗なスペクタクル的秩序に参入し、その一部と化そうとあがく、彼等の絶望的な希求を物語る。しかし人間はこの希求によって、疎遠な圧倒的な実在として自分たちにすでに敵対している幻影の秩序をさらに強固なものとし、生産と消費の場において、ますますスペクタクルの無力な奴隷に転落することしかできない。
 そして資本主義の商品秩序にとって審美的エロティシズムの強迫観念が不可欠なものであるならば、貨幣と商品の抽象的にして娼婦的悪魔的なエロティシズムは、何よりも女性の制圧の上に成立している。最初に資本によって押収される対象は女性の身体であり、資本はそれを抽象的普遍的なエロスの記号に変質させる。だからこそ完全に受動的な女性オフェリアが、宮廷のスペクタクル秩序を象徴し要約するのである。役割演技のスペクタクルは、男たちに王や廷臣その他の役割を与えるに先立って、まず彼女を<美>や<愛>や<献身>といった女性的価値の化身へと蒸発させてしまう。彼女は<純粋女性>を演じることを強要されており、抽象的普遍的な<純粋女性>として、スペクタクルを操る権力による展示と操作の対象となる。<純粋女性>とは、役割の仮面をつけて相互に他を出し抜き欺き操らんとする男性たちの抗争の獲物=対象として抽象化された女性である。男たちを駆り立てるこのゲームは、貨幣の所有がもたらす慰安と力と全能の幻想、スぺクタクルへの耽溺に由来する。こうして<純粋女性>に還元されることによって、女性は男性が操るための道具となる。(161-62頁)

近代資本制と家父長制の共犯性を語るこの一節には、ラカンジジェクバタイユ、あるいはセジウィック的視点が交差するじつに鋭利な洞察がある。ちなみに本書の出版年は1983年である。