在野の思想家の凄み

これまたid:shintakさんがすでに書いているが、土曜日は豊橋在住の思想家の関さんのインタヴュー。きわめて有意義かつ刺激的な機会となった。これまた詳しくは「今日から四百」をご参照いただきたいが、私として印象深かったのは、BIを可能にする政治的システム、あるいはそれを支える政治的思想に潜在する広義の「ファシズム」性ということ、さらにそれとも通底する可能性もある「労働の美学化」という視点であった。しかし関さんは同時に非歴史的な思弁に走ることには至極慎重であって、狭義の歴史としては30年代のヨーロッパのファシズムを考察する際のソヴィエトの存在の重要性を強調されていて、その点からすると現在徒にファシズム的危険性を言い募ることはBIに関するイデオロギー的なアレルギーの偽装ともなりかねない。その一方で、近代における広義の右翼思想(保守ではない)の再検討、政治と美学の再考、それらの重要性がやはり気になる(当然この脈絡における「ユートピア」あるいは「共同体」という点も)。またこのような関さんの態度とつながるのかなあと思ったのは、ハムレット論の思弁的な箇所につき質問すると、たぶん意図的にザッハリヒな答えが返ってくることが多かったということで、なんとなく先日の駒場でそっけなくI don't simply understand the point of your discussion. What is the real actuality of your argument?といったK谷氏の発言などを思い出したりとか。もう一点、BIが個人のアトム化を進めるのでは?という質問に対して、むしろその運用への参加(これも政党政治によるrepresentationではなく)ということから、あらたなcitizenshipの可能性を示唆されたことが興味深く、関さんの別の著書におけるマルクス主義批判とこれはつながる問題である。マルクス主義モンテスキューからルソーへいたる「共和制」をブルジョワイデオロギーと一蹴し、さらに一党独裁を主張したことから、「国家」と「社会」を「政党」によって接続することで後者を前者に回収する近代のブルジョワ政治をまさに反復してしまったという批判がそれであり、まさにそれゆえにcitizenshipの蔵する政治的可能性が抑圧されたという議論になるが、なるほどと納得(ただし『ブリュメール』は政党による代表の根源的不可能性を洞察すると同時に、その不可能性が露呈する「もの」としての「革命=パリ・コミューン」と「反革命ボナパルティズム(広義のファシズム)」の構造的=リビドー的同一性を読解し、もの凄いのですが):

左翼の滅び方について (窓ブックレット)

左翼の滅び方について (窓ブックレット)

またまた吉祥寺での日常が始まった。

追記:モリスとハイデガーというかつての福田和也の議論が本にでも纏まらないかなあ。

追記2:沢尻、ついに離婚か。よしよし。がんばれ、沢尻。『パッチギ』を見て沢尻の天才を確信したので、なおさら。ついでに藤本美貴も離婚しないかなあ、というと意味が不明になるか。

追記3:上のように書くとIQの低い実証主義から「思弁」の非歴史性を言い募る向きを活気付けることになりそうだが、関さんはそういうことを示唆しているではない。「思弁」のもつ政治的可能性についてはいまこそ強調すべき文脈がいたるところにある。