モダニズムの制度化

土曜は国立の冷戦読書会に参加。O田さんとO智さんによる「モダニズム」という文学的概念が制度化されたプロセスを歴史化する試み。興味深く拝聴。特に冷戦期におけるニュヨークの(ユダヤ系)知識人によるトランス・アトランティックな輸入による(イギリス)モダニズムの制度化、その脈絡でのリベラリズムによる脱政治化、そこにおけるトリリングの重要性、それと対立する南部農本主義ファシズムリベラリズムという揺らぎ、そこにおけるニュークリ(滝クリではない)の位置づけ、またこれらに先行するイギリスにおける英文学の制度化(ブルームズベリ、リーヴィス派、オーデン世代)などなど刺激的な視点が続々。少々興奮する。

言わずもがなのコメントして申し上げたのは以下のことであった。このナラティヴに収容できない「過剰」としてのエリオットとパウンドという点がそれであった。もちろん両O氏のナラティヴは彼らやフォークナーを特権化する従来の非歴史的な文学史への介入であるのだから、これは当然といえば当然なのだが、一方で両氏のナラティヴが「ファシズム」を通常の保守・反動と混同している憾みもあった。ファシズムのひとつの可能な定義として以下のような点を指摘した。つまり「近代」の(場合によっては捏造された)矛盾を「テクノロジー」によって解消する美学的=政治的衝動という定義が可能であって、まさにエリオットやパウンドは最新の文学的テクノロジー(詩法)によってそれを見事にやり遂げたのであり、つまり彼らは文学的テクノロジーを政治化したという意味である意味純正なファシストであったのではないか。その後のリベラルな文学史はこのテクノロジーの政治性を脱政治化してしまい、それを単なる「文学の技法」に矮小化してしまったのではないか。

ちなみに上記の矛盾にはたとえば「産業」と「田園」なり「科学」と「文学」などがあり、単に後者を特権化するのが凡庸な保守ということになり、この矛盾を適当に調整=捏造しながら、それに困惑したふりをするのがリベラルということになる。ちなみに「技法=形式」か「文学=内容」か?とか「理論」か「文学」か?とか「批評」か「創造」か?とかいう(捏造された)矛盾も上記と同断であるだろう。この矛盾に関して、後者を言祝ぐのが単なる保守、これに悩む(ふりをする)のがリベラルということにさしずめなるのだろうが、たとえばこれに関して読めば「伝統と個人の才能」などというエッセイはあっぱれなファシズム的パンフレットではないか。すくなくとも20年代の初期エリオットはまさに優れた(!)ファシスト詩人=批評家であったのではないか。

これに関してはO田さんが以下の本の再読を提案したのは至当である:

Fables of Aggression: Wyndham Lewis, the Modernist As Fascist

Fables of Aggression: Wyndham Lewis, the Modernist As Fascist

これに関して以下の本も挙げておきたい:

Landscape and Englishness (Picturing History)

Landscape and Englishness (Picturing History)

体調が戻ったのでポスト研究会的イヴェントにも参加してしまう。


追記:昨日の研究会で自己紹介をすることになり、所属と名前と専門をいう羽目になったので、なんとなく気恥ずかしいから思わず「こんにちは、フジテレビの秋元優里です!」といったら場がシ〜ンとなってしまった。