なんとまあ慌しいことか

各種業務――本務校関連(ジムとかクミアイとか)、研究会関係、学会関係(とくに複数の委員会)、翻訳方面、原稿――などで首が回らないしだいで、ブログの更新どころではなかった。それに予想以上にワールド・カップにもハマってしまい困ったものである。こんななかでもゼミの飲み会をやりよく飲み歌う学生に煽られてカラオケでバーボンのロックを立て続けに飲んだらしばらく記憶を失ったようで、しかしながら、翌日は3コマ連続と会議を3つとかいう日々ですが、翻訳方面は最後の細かい仕事をどうにかすましホットしている(でもきっとまさに細かいところでミスがあるだろうなあ)。

明日からは早稲田でロレンス協会で金曜晩から役員会で早稲田付近に二晩宿泊のよてい。土曜のシムポが「情動論的転回」をめぐるシムポで楽しみ。これは杞憂だと思うけどもお願いだから「言語論的転回」VS「情動論的転回」という単純なお話になりませんように。むしろ「言語論的転回」こそが「情動論的転回」を不/可能にするのであって、フロイトはその点でもいまでもイケている。とくにメタ心理学的思弁がここでもイケているわけである、と思う。やはり経済論的/力動的/局所論的というメタ心理学的装置を駆使しないと「情動」ということはほとんど意味を失う。と偉そうなことをいいながら、当然、わたし自身もI'm not quite clear about the Freudian affect eitherであるのはいうまでもない。しかし「情動」と「モダニズム」という話ならばやはり複数の意味でのrepresentation(=Vertretung/Darstellung)という点から「歴史化」するのが相変わらずとりあえず肝心なんだろうなあ。それと関連して先月(?)の『思想』の討議は大切だったなあ(十分に読み切れていないテクストだけど)。

追記:老婆心ながらとりあえずつぎのようなものでaffectの項を読んでおくことがまず第一歩だろうけれども、それを一歩にしてフロイトのテクストという錯綜に歩みをいれなければならないわけで、困ったものだ:

The Language of Psycho-Analysis

The Language of Psycho-Analysis

The Freud Encyclopedia: Theory, Therapy, and Culture

The Freud Encyclopedia: Theory, Therapy, and Culture