添削マシーン

ここしばらくはゼミの4年生(計15名)の卒論の添削マシーンと化して、ほかの仕事がまったくできない。generousに15名も受け入れたのがいけないのだが、アメリカ文学で2つゼミを担当している同僚も数名いるから、まあ贅沢はいえない。学生の文章力にはかなり問題があるが、「解釈への意志」とでもいうべきものがけっこう漲っていて、いわゆるpowerful argumentになっているのは褒めてあげたい。これはすこし自慢するが、普段の教育の成果である。ゼミにおいては強力な精読=解釈マシーンとして模範演技をしている結果であると自惚れておきたい。南大沢時代は担当学生数は少ないものの英語の添削だったので難儀したが、吉祥寺は原則的に日本語なのでこの数をこなせる。

吉祥寺に来て以来、映像テクストつまり映画の分析をゼミですることの必要性を実感している。学生の文学テクストあるいは英語のliteracyということもあるが、カルスタ的な正論をここで述べることもできる。映画といっても『ベッカムに恋して』をクイアで読むとか、『タイタニック』における階級的無意識(悪意)のテマティスム的読解とかが定番であるが、去年は学生の要望でイーストウッドの『チェンジリング』における「モノ=母」などという精神分析的解釈をやったら2年生のゼミで大うけだった。今年はなぜか女子学生にティム・バートンが大人気なので、昨日の夜中にカミさんと『スリーピー・ホロウ』を観てみた。これが見事なアメリカ的無意識と外傷に関するなかなかよくできた精神分析となっていて、これも定番になりそうというかネタがひとつ増えたと喜んだ:

スリーピー・ホロウ [DVD]

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例の『シザー・ハンズ』などもなかなかである。

しかしやらなければならない仕事が山積みである。オランダで読んだペイパーの論文化、ロンドン大学の某研究所とのvisiting fellowshipに関する交渉(これについてはジュリエットからとても強力なrecommendationをもらい大感謝)、出版企画書などなど(もちろん最優先は20世紀後半イギリス文学史の原稿への加筆である)。そんななか吉祥寺の複数の筋の事務仕事、支部会と親学会関連のお世話係、消防団、また例の俳句では嘘のように才能が認められて某関西方面の団体の幹部職が約束されているらしい(笑)。

このようなまさに嘘のような忙しさの中でかなりの現実逃避からおもに地元で深酒が続いていたが、しばしば記憶を失うことが多々あり、やはり地元では弛緩してダメだという結論に達する。まあ、エビ蔵のように小生はカラミ酒でははなく、数限りなく泥酔はしてきたが一度も腕力沙汰に及んだことはない。しかし、まあ地元の濃密な人間関係の中で痛飲するのにもかなり飽きてきたので、そこで最近ではどうしても飲みたくなると週に1回程度、ちょっと離れた日吉のバーで時々なんの人間関係のないところで、シングル・モルトを生で3〜4杯という感じになっている(妙蓮寺の某バーはオヤジ・ギャグ禁止で文字通り出入り禁止となった・・・きれいな女性のやっているバーなのに・・・)。

部屋を根本的に掃除したらかなり元気が戻ってきた。