ありがとうございます

国立関係の方々から本をいただく:

ジェンダー表象の政治学―ネーション、階級、植民地

ジェンダー表象の政治学―ネーション、階級、植民地

ありがとうございました。

最近、国立は業界の知のラディカルな中心となっているが、小生なども読書会などを通じて知的な刺激と元気をもらっている。

また国立方面の紀要も最近いただきまずは座談会を拝読したが、自身の「モダニズム」に関する不勉強を再認識した。

吉祥寺でも学部の授業で同業者がこういった論集に書いた文章を教材に使うことがあるが、文化的なリタラシーとでもいうべきものを学部生にしっかりと教えることが文学部(とりわけ英文科)の歴史的な存在意義であることは間違いなく、時に侮蔑をこめて知的紋切り型といわれる「ジェンダー」「表象」「エスニシティ」「セクシュアリティ」「階級」「ネイション」「帝国」などというカテゴリーを通じた文化テクストの批判/批評的分析の実践的な教育を小生なども目指している。

こういったことをいうと高踏的な「文学派」の方々から軽蔑されるのだが、むしろここで思い出したいのはあの村山敏勝が喝破したように「政治批評は文学的快楽と矛盾しない」ということであって、この陳述は矛盾する複数の意味で解釈しなければならないが、まずはこういったシニシズムに聞こえるようでいてじつはそうでは必ずしもないザッハリヒな彼の物言いが個人的には懐かしいし、その批評的な介入力がいまも貴重である。すくなくともこの陳述は、「文学」と「政治」とかいうそれこそ典型的な紋切り型、つまりはド・マン的隠喩の政治性と歴史性を唯物論的に暴露する鋭い発言である。レイモンド・ウィリアムズの『文化と社会』という本もこの紋切り型の系譜学であるので、本当は英文科の教育において必須のテクストである。

たとえばクイア以前と以後ではフォースターなりロレンスの言語の強度は画然とテクストの唯物論において違うのであって、こういったテクストの唯物論的な強度を「文学」と呼ぶとき、「文学派」と「理論派」という構図は雲散霧消するはずなのに、またそんな文章を量産しているのに、小生などがいまだに「理論派」といわれてしまうのは不徳のいたすところではあるが、じつは心ひそかに「オレがいちばん文学がわかっている」というマッチョな自負を抱いているのである、はい。

追記:国立方面といえば、マルクス主義的マッチョとして業界で有名な某氏が深夜カラオケでAKBを熱唱される姿はまさにクイア的に圧巻でありました(振り付けまで再現されるので思わず「前田敦子がはいっているじゃん」と褒めて差し上げたら、「ちがう!板野友美だ」と怒られました)。

追記2:あるいはたとえばセジウィック以後のディケンズ、ジェイムズなどといってもよい。