いま文学やること

なんで文学研究をやっているのか、というナイーヴな疑問にたいして、文学が好きだから、とかナイーヴな答えを出す前に、ちゃんと考えることが必要だし、説明責任なんてイヤな言葉を使いたくないけれども、教場ではこの答えが鮮明になければ学生は見向きもしないのだが、それは彼らにこそ文学的な感性があるからである。

その意味でもお礼が大幅に遅れてしまったが、つぎの本などは要所要所難解だけれども、上で言った意味で元気をくれる:

ナショナリズムと想像力

ナショナリズムと想像力

hidexiさん、ありがとございました。いつものように丁寧で親切でわかりやすい翻訳です。こんなスピヴァックの言葉が――「ナショナリズムの同一性を超えて、インターナショナルなものの複雑なテクスト性に向かって」(23頁)。そう、脱構築ってすぐれて政治的で歴史的な実践なのですよ、ということが「批評理論」という非歴史的でイマジナリーなナラティヴのなかで忘却されてしまい、「文学」なるものも引用箇所でいえば前者のナショナリズムの同一性というか隠喩性というか、はなはだ快適で快感原則の枠内のサロン的な共感のなかでそれが消費されてしまうわけで(その意味で何度も言うけれども「理論派」と「文学派」は共犯(鏡像)的な関係にあります)この前も書いたけれどもやはり「文学」とはそういったイマジナリーな隠喩性の共有(快感原則)の彼岸のテクストの唯物論(ド・マン)にあるのであって、その意味で脱構築精神分析という矢印関係も成り立つかもしれないし、その意味での「文学」にこそ歴史=政治が露出するのです・・・とか思わず長文になるから、小生はtwitterはやはりむかないか。

世間で悪評紛々のRW研究会であるが、最近の『Web英語青年』のキーワード連載などを読んでいると、外国の批評家の思想を日本語化することについて色々と思う。つまり真の意味での「翻訳」(これはスピヴァック本でもキーワード)ということで、RWの思考(それはRWにおいて身体化されているものであるが)を日本語において(再)身体化し「日本」を思考することがようやく可能になったのか、そんな言葉をやっと私たちは手に入れたのか、それもこの連載のキーワードでいえば「私たち」がこのことをすることが可能になったということで(ある単独の秀才のパフォーマンスではなく)それが重要だと思う。そこには新たな「開け」みたいなものがあって、イマジナリーな共鳴というサロンの隠喩性(お文学)の彼岸(文学)への視線を忍耐強く持ち続けることにも繋がる。

この前の月曜日、子供が発熱し、やむなく休講にする。とくに月曜1時限の三田の学生さん、すいませんでした。