つぶやき風の付記

あ!こんなことを書いている日ではなかった。今日はフロイトの誕生日だった。

先日のエントリーにおける「私たち」といった複数性について念のために蛇足を。

これは近代の諸矛盾を考える上でのマルクス(主義)における最重要なプロブレマティークの一つであることは言うまでもない。

そういう基本的な「教養」が共有されていない憾みがあるのも、文学派と理論派による鏡像(共犯)的な偽の敵対性の一種「冷戦」的な閉域ゆえであるのだよなあ。やはり冷戦って歴史と政治の抑圧装置であるのだし。

ソ連崩壊後にマルクスなんて、みたいな、ポストモダンな文学=理論派の条件反射的な発言も、業界の宴会におけるありがちの放言であっても辛いなあ。これだって無自覚のフクヤマ的(ネオ)リベラリズムの反復だし(やはり(ネオ)リベラリズムのきちんとした研究が英米文学研究の基礎だよねえ)。

ベタに英文学的に言っても、今朝某氏との電話での通話でも話題になったが、この「私たち」って、たとえばWoolfのおもに30年代以降のthematic obsessionであって、当のウルフは当然マルクスを必須の教養として経由しているのに、英文学(者)という制度がそれを迂回してしまう、その症候的な制度性とかいうまえに、こういうのって「作者の意図」とかいうベタな実証性のレヴェルでたんなる誤読になっちまうんじゃないのかね。

『三ギニー』ってテクストも『共産党宣言』をパロっているのであって、インターナショナルに中産階級の女の非暴力的な共闘をまさに宣言している(ひどい階級的な悪意)。ブルームズベリーって、たんにその後のルサンチマンにみちた英文学っていう制度よりも教養があるってことか。

文学と思想(政治)の分断という英文学的な制度性ということ。たとえば北米の冷戦期のテクストで、(大陸の)教養=思想って、マルクス主義のことだし、つい最近までは大文字の教養=思想とはマルクス主義のことであったのだから、それを忘却する「文化」的な装置こそが、文学=批評理論派のポストモダンで非歴史的な共犯=鏡像関係にほかならないんだよねえ。

でもそういうことって『文化と社会』を読めばすぐにピンとくるし、このタイトルにしてからが・・・。

やはり英文科の必須科目に「文学原論」っていうのを作って、4月くらいにこのテクストを扱うべきだと思います、はい。