フロイトに公正であること

出版関係の作業をしていると文章の推敲以外に厄介なことがあって、以前引用したデリダフーコー論「フロイトに公正であること」は『批評空間』に掲載されたものだったのだが、それが青土社の単行本に採録されたので、頁数を修正しなければならず、また訳文もまた少し変わっている。1章の1セクションはフーコーを読むデリダを読んでいるので、修正箇所が多くて大変だ。

普通は近代的な科学=心理学的言説とか、進化論とか、生物学とかの言説に「歴史化」してフロイトを批判するために引用されるのがフーコーだが、デリダが読むフーコー(とくに『狂気の歴史』と『言葉と物』)の態度はとっても複雑であるの同時に、一般に利用されているフーコーとは真逆のことすら言っていて、それにデリダは注目する:

心理学、進化論、生物学主義と手を切るそのフロイト、病院の空間に対して異質であるがゆえに、狂気に対して歓待的な(この語をあえて使う)悲劇的なフロイト、天才的な狂人たちの偉大な系譜のなかへの歓待に値する悲劇的フロイト、それは、死と対話するフロイトなのです。それは、したがって、私の知る限りフーコーがその著作の名を一度も挙げないにもかかわらず、とりわけ「快感原則の彼岸」のフロイトなのであろう。(192)

だからデリダはこんな断言をする「戦争とともに、死のみが、心理学とその進化論的楽観主義に、否定性の力を導入する」(192)

精神分析の抵抗―フロイト、ラカン、フーコー

精神分析の抵抗―フロイト、ラカン、フーコー

ここでなんども紹介していますが。