実証的に外堀を埋める

今日は同僚の荷物がRoyal Mailから再送されるのが10:30~14:00と言われたので8時半くらいに朝食を終えると片付けをしてレンジの掃除をしてシャワーを浴びた後で、フラットにて細かい歴史系の論文を読んでいると幸いなことに11:00にはその荷物が届く。という次第ですぐにBLに(Royal Mailのことだからもしかしたら今日は来ないことを覚悟していたのだけれどもよかった)。Easterの頃はやたらreading roomが込んでいてこんな時間に来たら席をとることは無理であったが、いまは天気が良くて勉強の意欲がなくなったひとがいるのか、というか大学のタームが始まって休みでなくなったのだろうが、ともかく比較的に空いていて席を確保することができた。夏休みになるとまた15分は開館前に並ばなければならない。けど、officeはなんだかみんなよくしゃべていてやかましいので(ドアを閉めて仕事すればいいのだが、みんな開けているので気が弱いから閉められない)いっそBLの方が仕事が進んだりもする。

Alix's attachment to Kleinの文脈というか外堀を埋めるためにAbrahamがmelancholiacにおけるparanoia的なphantasyにおけるanal-sadismを細かく分析する上で(これが1922年にIJPに掲載されたAlixの韜晦された夢(自己)分析を読み解くのに重要)先行研究としてあげているオランダの分析家OphuijsenとStärckeの同じくIJPに1920年に掲載された論文を読む。それから1924年にAlixがJamesに読むことを勧めているKleinの同じく1926年にIJPに英訳が掲載された少々長めの論文も読む(いやいやPEPはとても便利でBLから小生のMacBook Airですべてこれらの論文がdownloadやコピペができる)。ちなみにIJPとはInternational Journal of Psychoanalysisのabbriviation。その作業で外堀をさらに埋めた感じ。昨日のAbrahamのmelencholiaに関する論文はほとんど決定的なtextual proofを含んでいるのだが、昨日も言ったけれどもこのテーマに関しては今でもmustな論文かもしれない。とくにnot pathologicalなmourningとpathological(ときにpsychoticな)melanchliaとの区別の臨床的な現場での困難を丁寧に語るところなど著者の臨床医=理論家としての誠実さが滲みでている。しかし困難を語りながら最終的には臨床=理論的な差異を明晰にしている(そういえば吉祥寺のプロジェクトの集まりで着任早々になんだかpaperを読まされたとき、この問題系で話をしたらこの区別が曖昧であるととても厳しくある同僚から質問されたのだけれども、曖昧な答えしかできなかったことなどをいま思い出したりもする)。

ロンドンは晴天が続く。日曜よりも湿度と温度が少々下がった感じもする。こんな6月になるのだろうが、小生は日曜以外は仕事ということになるだろう。7月22日から2週間程度のsummer holidaysの予定だが、それ以後もずっと仕事になるだろう。ちなみにholidaysの間はこの日記はお休みの予定。ブログで仕事の話をするなど最低との同僚の発言もあるが、それとは逆をいく。それとは全然関係ないけれども、10年前にロンドンにいたときに、こちらに長い非同業者系のひと(日本人)に「どうせロンドンにいる日本の大学の先生って英語がしゃべれなくて、遊んでいるだけなんでしょう」と言われた屈辱がいまも忘れられない。こちらに長い日本人って(とくに非駐在員系のひとって)a very twisted pride in having been living here for a long time みたいなものがあるような気がする。余計な話だけれども。