新しい批評の言葉

昨日officeに行くとテーブルの上の本棚にK先生@目白が郵送してくれた『レイモンド・ウイリアムズ研究』3号がある。昨日の晩にさっそく一気に通読。興奮する。明らかに新しい批評の言葉がそこに立ち上がっている。批評が政治的であるとすればそれはそれがなんらかの「可能なる集合性」を目指すことにあるはずだが、その可能性が鮮明にかつ先鋭に見える。Nさんの対象を鋭利に批判する言葉を自分に差し戻すような身を切るような批評の言葉に感銘を受ける。これは新たに浮上した「分断」への抵抗のためである。またOさんの議論には、そろそろ考え始めなくてはいけない10月のウエールズのconferenceのpaperに関して大きな触発を受ける。具体的な目次などはここをご覧ください(入手は簡単です:http://d.hatena.ne.jp/takashimura/20120405)。

困ってしまったことは、それでもって大変興奮してしまったので、夜眠れなくなってしまったことで、まずはプロジェクト@ロンドンのほうがかなり良い意味で煮詰まってきたうえに(「煮詰まる」とは本来はこのような良い意味で使用するのが正しいようで、そういえば「こだわる」という表現が、本来は「こだわらない」つまり些末なことは意に介さないという慣用句から類推された誤用であると石川淳がむかし言っていたのを思い出したりもして、たしかにこの表現「こだわる」にたいしてなんだかシニカルな気分がある)だから夕食後もこのプロジェクトのことが頭の中でめぐっている、それに加えて日本からの仕事の催促などがありそれを考えるためにフロイトの論文を日本語で読んでそれを考えだしてまた頭が興奮してきて(Kさんありがとうございました)、つまり頭が3重(RW、Alix、フロイト関係の日本語の仕事)に興奮してきて昨日の晩は良く眠れなかった。しかたなく残っていたラフロイグを飲むがなんだか美味しくない(ウイスキーはやはりあまり好きではない)。なんだかウインドウをたくさん開きすぎたSafariが固まってしまったかのように、脳が麻痺した感じ。歳のせいもあるけれども、キャパがないよね。

ということで今日はちょっと朝はぐずぐずして10:00からBL。午前中は1935年にErnest JonesがLondonとViennaの理論的な差異についてViennaに説明をしたIJP-Aの論文をPEPにて読む。だがなんだか調子が悪く、このようなブログのエントリーへ逃避(ロンドン時間で14:30)。

そうこうしているとDeeからメールがありロンドンでの精神分析関係の情報が山ほど来る。とても親切でありがたいけれども、とてもこなし切れない感じ。前回のロンドンではあまりに豊富な精神分析関係の情報に一挙に到着直後にさらされてちょっと頭がフリーズし、そこでまずは臨床系の情報はカットしようと決断し(興味はあるがKleinを読み始めたばかりではそこまでは無理なので)、歴史、思想系の情報に的を絞ったが、今回はすこし臨床系もと思っているが(Kleinはなによりも臨床の天才で、ある日本の代表的なクライニアンはテクストは臨床の残りかすだと言っていた)、情けないことに母語でやっているわけではなく所詮外国語の英語でやっているのでおのずと限界を今回も感じている。まあロンドンに2年いられればとか思うが、たった1年でしかもいまのAlix関連のプロジェクトをきちんと形にしようとか思えば、また日本からの仕事も同時にやるのだから、かなり切り捨てなければいけない情報があるだろう。

プロジェクトのほうは例のKlein in Berlinに目を通さなければいけないが、そろそろAlix/Jamesのarchiveを読む時期のような気がする。

昨日の晩はそんなこんなで眠れぬ夜を仕方なく例のJonesの伝記を読んですごす。しかし精神分析の歴史にいかに無知であるかを実感するようなことが多い。Ernest Jones自身はWelshであるが、2番目の奥さんがドイツ系のユダヤ人であるなんて知らなかった。それでJonesは「私もユダヤ人で〜す」みたいな言い方をしてProfessorに媚を売ったりするのだが、その反面、Melanie Kleinを擁護してAnna Freudを批判してFreudの逆鱗に触れたりもしている(しかし今度はJonesがAnnaと婚約をしようとしてふられていたなんてことも知らなかった)。また1938年にFreudたちがViennaから亡命するときに親類を残してきたのだが(みんなその後にナチに殺されてる)その段階では精神分析などという破廉恥で危険で退化した思想に関連している人間は迫害されるが、一般のユダヤ人まで殺されるとは予想されていなかったことなどを知らなかった(Jonesの妻の親類もそれでイギリスの亡命していなくてみんな殺されている)。しかしナチといっしょだとは言わないし、例のダグラス君のレヴェルといっしょにしないけれども、いまでもフロイト批判している人って、どこか19世紀な感じがしますよね。当然フロイトは19世紀が生んだ19世紀を超えるものであるわけだが。