I have always had a hell of a superego.

昨日は睡眠不足気味のなかちょっともたもたして10:00からBL。午前中はJonesがfemale sexualityに関して理論的な差異が明白となったLondon (Klein) とVienna (Anna) の精神分析という事態に対応するために、後者にa sort of diplomatic strategyとして説明にいった際に読んだpaperを読み(この人一見したところ「狡い(こすい)」ところがあるが、内容的には堂々と(細心の気を使いながら)Kleinの議論を正確に代弁している)、午後はこのブログへの逃避の後、PEPでAbraham/Freudの書簡(Alixを分析していた1924年から25年にかけての)を再度チェック。そうしたらちょっと驚いたのだが(まだ細かく理論的=修辞的に精読していないけれど)Jonesが1935年のpaperで言っているのとほぼ同じことをAbrahamが問題にしてる。つまり、Abrahamがいま分析しているa certain patient(Alixである証拠はないが女性)の症例からほぼ同じ問題系(early female sexualityに関するoral/anal系のこと)をFreudに質問のように語っていて、Freudはそれに対して(このまえのDavidのように)非常に複雑で関心をひかれる問題だが自分にはわからない、みたいな返事をしている。なんだかまたつながった感じだ。今日は17:00からあるセミナーに出るので、それまでこの件を再再チェックしよう。

こんなしだいでPEPから書簡をつぎからつぎとdownloadしているのだが、ある程度回数を重ねるとSafariが固まる。「キャッシュを空」にして「表示→再読み込み」をするとどうにか復活するが、これ数回繰り返すと小生のMacBook Airは固まってしまう。どうしてなのか。どなたかMac userの方、ご指導ください。

昨日紹介した『レイモンド・ウイリアムズ研究』3号で、大事なことを言い忘れていた。討論で出演している名古屋大学のE先生(原子炉関係の専門家)の「声」は既存のメディア(分断の再生産装置のひとつ)では聞くことができないものです。ぜひこの雑誌を入手してください。そういえば、この先生を呼んでこの討論のメンバーを中心に吉祥寺で「原子力」シムポをやったのだが、文学関係の反応は鈍かった。業界も同僚@吉祥寺もほとんど無反応というか無関心。かなり宣伝したのに。なんだかこういうのって脱力する。「文学」ってなに?みたいな...でもこういう言説がまた「分断」を生むのだろうけれども。

最近夕食は和食にしているが、あまり美味しくない。とくにみそ汁がうまくできたためしがない。赤出し、赤みそ、白みそのqualityは自宅と変わらないはずだし(このブレンドで作っている)、カツオブシもそうなのだが、なぜかだめ。水のせいだろうか。まあ和食に禁断症状はないからいいけれども。日本酒を飲みたいとも思わない。なので昨日はまたパスタ。いつも魚介なので昨日はベーコン(脂身のないやつ)を使ってみる。たぶん脂身がある方が美味しいのだけれども(中年のでひかえる)、塩味の調整がいまいちだったが、85点の出来。やはりフラットで一人で「おいしい」と盛り上がってしまった。

寝る前にはJonesの伝記を最後まで読んでしまい、3時過ぎに寝たので今日も睡眠不足。でもJonesってさっきも言ったけれども、かなり狡猾なところがあるが、あのProfessorに対して結果的には堂々とKleinのearly Oedipus complexesを擁護し、制度的にchild analysisとしてのBritish psychoanalysisを成立させた功績は大きいし、ナチの迫害から多くのJewish analystsを守ったのも偉いし、あのブルジョワ的にrespectableなイギリスの医学会と世間において(繰り返すがそれはいまの日本と変わらない)Freudian psychoanalysisを認めさせたそのeloquecy, devotion and energyも凄いと言わなければならないだろう。これまでFreudが亡命できたのはマリー・ボナパルトの政治力のためだと思っていたのだが、この伝記によるとJonesの奮闘が大きい。彼はなぜかfigure skatingが趣味で、この趣味は当時イギリスではupperなものだったらしく、それで出来たコネを使いまくってBritish governmentがナチ政府にだいぶpressureをかけるようにしている。この伝記の最後が感動的なのは、Jonesの生涯の最後があの大部のフロイト伝の執筆にほとんどすべての精力が注がれているのだが、そのfinishing processとこの伝記のfinishing partがシンクロしていて、またこの伝記の著者がプロのbiographerなので伝記を書く苦労と喜びと意味などを随所にコメントをしていて、ともかくこの箇所はなんだかtouchingで夜中に一人で涙ぐむ(単純だ)。標題(このエントリーの)はJonesが亡くなる直前に息子に言った言葉であるが、確かに仕事、仕事、仕事、仕事、仕事、仕事と言う風なobsessionってなんだかよくわかる気がする(実際はそんなに仕事してないけれども)。大学教員なので勉強も論文も書かないで遊んでいるととてもベタに鬱になり、とても単純に生きている意味がわからくなってきて、死にたくなってくるものなあ。まあこれがsuper-egoのなせるわざなんだろうけれども。齢50を超えて自分がこの仕事についてからの20年とこれからのおおよそ15年とかを考えてしまうことが多くなった気がする(最初の6年@赤坂は過酷だったが、それはある理由からあまり詳しく語らない)。psychoanalysisというcauseないしはmovement (というFreudが使った言葉をJonesはsound religiousなので嫌っていたが)のために精力を政治的かつアドミニ的に使うというのならば別だが、大学とか「英語教育」の「改革」のために時間を使うことは勘弁だと、この伝記を読みながら勝手に自分の人生を考えてしまった。

まあJonesのようなちょっと育ちの悪いゆえにambitious and energeticな人間がおもにアドミニを担当し、ブルームズベリー的引きこもり系のJames/AlixがStandard Editionを担当するというのも絶妙な分業だったのだろう。しかしJonesも理論的にはもちろん精通していて、ドイツ語もでき、奥さんがネイティヴなので、後者の翻訳に関してもかなりうるさかった。そういえば、JamesもJonesも晩年はほとんど見た目がFreudになっている。写真をみると。transferenceってすごいなあ。まあ、両者とも強迫的に仕事しまくり系である。

全然関係ない話だが、自宅の近くにある行きつけのバーの常連に小生が「金子師匠」と尊敬している近所の畳屋さんがいる。この方明らかにオヤジギャグの病的な天才。機関銃のように連発し会話のすべてがそれになるJoyceみたいなひと(って言い方をしてよいのか)。その師匠に小生が「最近、仕事しまくりですよ」と申し上げたら、「仕事しまくらちよこ(島倉千代子)」と訂正された。さらにいえば、南大沢時代にT山御大が「E藤もメラニー・クラインとかいって頑張っているのはわかるけれど、フロイトユングならいざしらず、メラニー・クラインなんて聞いちゃうと、根が暗いん(メラニー・クライン)とか思っちゃうよ」とかおっしゃていたなあ。