psycho-anal phantasy

今日もBLにて9:30からAlixのarchiveと仲良く。書簡集に入ってないが、極めて重要な書簡でAlix's Kleinian Anal-sadistic phantasyというべき、ほとんどスカトロ的な表現が横溢する手紙はちょっと判読ができない箇所もあり、しかたなくphotocopy serviceに頼ることにする。archiveのrequestもphotocopyのorderも全部webということになっているので(BLにいても)、もらったマニュアルを見てBLのPCで注文する。慣れない作業で時間がかかり午前中が終わりそうなので、ちょっと早めにcafeにて軽いvegetable lunch(また新しいarchiveをwebでorderしたのだが使用するdeskに届くまで最長70 minutesかかるので、まあlunchということに)。しかし件の手紙、コピーが来てからそれこそDeeなどnativeの力を借りて判読しようと思うが、Alixはboth psychoanalytically and physicallyにobsessed with something analであって、この歴史的な意味は大きいと思う。つまりBritish modernityの研究にとって。まあ、これで小生は日本の業界でpenisのつぎはanalにとりつかれたやつということになりそうだ。でも一見おバカなことに見えても、はっきりいってたとえば同時代のVirginia Woolfのcanoniseされた小説を律儀に読むよりも(とはあえて言わぬが、負けず劣らずにこれは歴史的な意味がある作業かと、両方を専門家としてやってきた立場から確信(それにつけても従来の「文学」の特権化の歴史的意味を考えるべきだし、すでに国立の人たちが強力にそれを実践している)。なんでmodernityの研究をするときに小説などの文学が「英文学」として意味を持つようになったのか、まじめに考えることが、まあ「英文科」の残された生きる道だろうねえ。