やはり「煮詰まり」ぎみか

今日は起きたらなんと10時過ぎ。iPhoneのアラームをかけ忘れたのだが、普段はその前の7:00には自然に目が覚めるのに。やはり疲れているのかもしれない、精神的に。こんなことを言えば、アドミニ&事務だらけで日本の過酷な気候の中で日々戦っていらっしゃる同業者の方々の顰蹙を買うことは必定ですね。すいません。でも小生、10年前のロンドンもそうであったが気合いと労働量では、こちらでPhDをやっている連中とさほど変わらないのではとか思っている。ともかくこちらでのプロジェクトをかならず英米の査読付きのジャーナルに載せるという絶対的な目標があり、それをウエッブ上で公表してしまっているので、なんだかそのプレッシャーが大きい。もしかしたらだめだったらどうしよう、みたいな不安がつねにある。ですので、こんな発言(ちょっと疲れた)をお許しください。10年前はTwentieth-Century Literatureという米国の老舗系の雑誌に載り、その後もときどき査読の依頼がある関係になり、また卒論、修論、そのあとのWoolf系の論文執筆の際にとてもお世話になったこの雑誌に掲載されてとてもうれしかった。ただ思い起こせば、2003年3月の段階でほぼ原稿はできていたのに、日本に帰るとあの都立改革に巻き込まれて、投稿まで2年半強もかかり、掲載まで3年も経ってしまったが。投稿してからは順調だったと思う。readers & editorの受けは良かった。じつはModern Fiction Studiesも考えていたのだが、ここはたしか8000 wordsが上限で、小生の論文は12,000 wordsをたしか超えていて、4000 wordsを減らすのは無理と思い、字数制限のない前者に投稿を決めた記憶がある(後者に出してもacceptされただろうくらいの感触はあった)。そういえばあの村山さんが生前にディケンズと公衆衛生に関するとても律儀な英語論文を書いて、アメリカのどこかの雑誌に載せていたが、彼が「もしこれに失敗したらこの仕事をやめようかと思っていた」と言っていたなあ。その気持ちはわかる。せめて1本でもそういう論文がないと、たとえば国内の『英語青年』などでブイブイ系の文章を書いていて職業的な罪悪感に苛まれることはあるだろうから。彼の場合は『現代思想』が中心だたったけれども。

昨日のエントリーについて。まずはSarahですよね。綴りは。また小生の英語帝国主義的発言にもいくつかの反応が。はい、すいません。とても柄の悪いかつ次元の低い英語帝国主義で、要は自分の聞き取りにくいのはbad English、聞き取りやすいのはgood Englishというほとんどクライン的な乳児のような二元論だし。まあ、修行します。小生もかなり「日本人英文学教授」としては健闘しているほうかと自惚れるが、中学でThis is a penで初めて、それからS V O Cとなって、あの『出る単』で勉強した典型的なmade in Japanならぬtaught-in-Japan Englishの限界を感じている。そういえば一緒にしてはいけないけれども、あの英語の達人である安東伸介先生がある英熟語をご存じなくて(あり得ないことに小生は知っていた)つくづく「所詮外国語だものなあ」と嘆息されていたことなどを思い出した。もう良い歳だけれどももっとアグレッシヴに英語を語学として勉強しないといけないよね。根本的な諦念をいだきながら定年まで。

当然このエントリーの題目の「煮詰まり」は誤用です。どうかご用心。