どうにかこちらも橋頭堡が

戦線が拡大しているので、それぞれの方面でなんらかのperspectiveを確保し、それを橋頭堡に上陸作戦を敢行をして、その後はそれぞれの作戦に必要な戦略を必要な時間だけ実践すればよいというような見取り図を得て安心しないと不安で仕方がなく、Juliet Mitchellゼミでのプレゼンに関して、かなりとっても暗中模索していたのだが、どうにかそれを確保できたみたいで安堵。今日は9:30からBLでButlerの_Gender Trouble_のJoan Riviere批判と、その対象テクストであるWomanliness as a Masquerade (1929) を再読する。Alix Stracheyの場合など典型的だが、この時期の精神分析のthematic obsessionはcatrating mother (female Oedipus compelxes) なのだが、Riviereのこのテクストについても同じであるのに、Butlerはそれをぜんぜん読めていない。catration=fatherというまったく非クイア的かつ非歴史的な精神分析理解でとても凡庸な批判をしている。なんだか無惨なまでに。Riviereのこのテクストはまさにエディプス的な去勢のクイア性の混濁の濃度において傑出していて、それはバトラーのフロイト読解の方向性であるのに、Riviereについてはそれを抑圧している。Riviereのクイア性を抑圧するバトラー。やはりまずは対象の小物感というバイアス、またベタな意味での精神分析の歴史の無知ゆえの無惨な誤読であるなあ(ラカン大文字の他者の理解についてもかなり無惨)。まあそういう次第でJulietなどは例外だがカリフォルニアの真っ青なお空の下で明朗快活に批評理論などをしているとBritish Psychoanalysis的混濁などということにはあまり顧慮しなくなるのか。しかしおフランスも同断みたいで、日本の羅漢協会などでもクラインといっただけで鼻で笑う向きがあるなあ。まあ、それは冗談として、もしかしたらJuliet Mitchellゼミでのプレゼンを通じて、戦間期British psychoanalysis におけるmother-daughter relationshipのテクスト/クイア的混濁の歴史的な非歴史性、非歴史的な歴史性というロンドン方面作戦の最終的な攻撃目標がそろそろターゲットとして視界に確保しつつあるのかもしれない。DeeとSophieからのメールによると、she is intersted in your critique of Judith Butler's critique of Joan Riviereであるそうなので、なんだか緊張してきた。一度この件で事前に会ってお話する約束になっている。南部的瞬間さんの表現では「生 Juliet Mitchell」である。ヤバすぎ(でのこの方とデスクをシェアーしているというかなり笑えるhot-desking situationもあるが)。

うう、残るは11月初めのWales方面作戦の見取り図がまだ。The Long Revolutionに沈潜しなくてはいけない。