ううう、やっぱりRWって

昨晩はいろいろと妄想をしているうちに眠れぬ夜になる。日本とは比べ物にならないが、蒸し暑い夜にもなる。かなり睡眠不足気味で10:00からBLで仕事。まずは転送してもらったグラントさんのpaperを読む。とても面白い。ファノンによるフロイトの父殺し(=食べる)のpostcolonial re-locationといった読解なのだが、まずは手前味噌に、クラインを読むバトラーを読む小生が読む(批判する)フロイトのメランコリー的な(家父長的)超自我形成の批判とある意味では同型の議論であることに気がつく(小生の場合は靖国という文脈だったが)。メランコリーと暴力という視点からの斬新な読解である。さらに個々人(息子たち)に食べれる=断片化される父の身体がsynechdochicalに内面化されることで形成される家父長的な「個人」が形成するorganic wholeを寸断するunbinding bindとしてのファノン的なwholeないしはorganisimという話にも触発される。どこかRWともつながりかねない可能性がある。この国立でのpaper、某高名な理論系の雑誌に掲載が先日決まったそうだが、たしかに。ただファノンにはまさにフロイト的な「不気味な」父=起源(ファノンではcoloniser/mythic originと二重化されるが)のuncanny returnという「暗い」部分もなくはないのではないか、みたいな議論は残る。質問してみようか。

その後はThe Long Revolutionに沈潜。じつは10年前以上にひとりでRaymond WilliamsとPaul de Manを並べて真面目に読まない英文学なんてやる意味がない!という思い(込み)から夏休みをそれらの読解に費やしたことがあったが(やる気だけでたいした結果は出なかったが)、その時の体験からもRWって字面を常識的に追っているだけではだめであることを痛感しているので(一見常識的な語彙で常識的なことが書いてあるように見えるが要注意)、とても遅々たるスピード。やはりwholeということとrevolutionということがどうなのよ?みたいなことに思考を強いられる。なにか思想、哲学的な外挿をしたくなるが(ってたいしてできないが)、あえてそうしないで読むやり方は、と悩んでいるうちに、ある箇所で(とくにstrucure of feelingが出てくる箇所などで)RWがEliotの伝統論を批判的に参照しているのではないかと思われる箇所がある。あえて英文学的な「伝統」という枠内でEliotの伝統論と比較したときに(あそこでもwholeが鍵語であった)なにが言えるかを言えばいいのかもとか思う。すでにつねに充溢に挫折する(ということは充溢をつねに欲望する)全体と、この充溢という問題系とはずれる、なんというか個々の経験を可能にしながら、その経験から想定はされながら、このレヴェルでは到達できない、というかRWには全体に到達あるいは全体として充溢するという問題系はない、そういった水準での全体ということ(その意味でRWが個々の経験をa genuine parityとかちょっと異様な語彙を使って語っていて、これってSpivakのequivalenceとどう関係するのか?)。このことを「革命/反革命」という点から、偶然性/必然性ということから考えたらどうかみたいな妄想をする。ううん、まだ橋頭堡には遠いなあ。日本にいればたとえばつぎの本が再読できるのに:

でもこの本って、affective turnsなんていう文脈でも再読すべき本だなあ。

そういえば小生の死の欲動本、アマゾンで「一時的に在庫切れ」になっている。これって売れてるってこと?瞬間風速的に「英米文学」というカテゴリーで300位くらいにはなったが。このカテゴリー、最初の100位くらいまでは、ハリポッターとかだものなあ(じつは小生、この手のもの映画でも一瞬もみたことがない)。

死の欲動本とかいえば、同業者を他者の自伝さんとか、南部的瞬間さんとかここで呼んでいるが、小生はその伝で行くと死の欲動さんとなるなあ。これを体現しているというわけか。でもこれは不死の思想であると解釈すれば小生は死を永遠に遅延することになる。そんなバカな。

追記:アマゾンのレヴューで山田さんの本への評価を見たが半分くらいが許しがたいカルスタ的悪評。まあ想定内だが腹が立つ。こんな怒りが仕事のエネルギーとなっているのだが。しかし最近聞いた話では、日本の業界でカルスタ批判をすると「そうだ、よく言った!あんなものは文学じゃないものなあ」とホモソーシャル風に肩を叩かれるそうであるから、この点も要注意。ついでにいえば山田本は、お文学とカルスタを同時に批判した本であって、まあこういうのってある種の脳の持ち主にはわかりにくいのだろうなあ。久しぶりに筆禍。