日本英文学的妄想

多方面作戦ゆえに、自分ではなるべく考えが集中しているように作戦を展開したいのだが、やはりそれでも拡散もしているようで、そのせいか昨晩も眠りが浅く(知恵熱!)今日もBL出勤は重役時間になってしまうのはまったくよくないけれども、そういってばかりもいられないので、今日まではRWの『モダニズム政治学』の復習をしながら思い出すのは、モダニズムを語るのにロマン主義との連続性を語らない英文学史は本質的にだめであることを(『文化と社会』と一緒に)10年前くらいに教えてくれた本がこの本であるのだが(それだからいまだに疑問なのはジェイムソンのモダニズム論ってロマン主義をスキップなんだけれども、あれってなに?という疑問にいまだに納得のいくお答えがないのはさみしい限りでして、だから小生は「ポストモダン」という用語は禁句にしてます、だって21世紀って19世紀の笑えぬ反復に見えるというのが小生の偽らざる印象だから)いま読むと自分はいったい何をそのときに読んでいたのか?と自問自答したくなってくるような箇所をみつけることしきりで、再読の功徳であるなあ(10年前はいまと同じくバカだったなあ)とかいう感慨もあって、同時に小生らの世代が習った退屈極まりない(失礼!)「日本の英文学」の輸入先であった「本場の英文学」の「辺境」にRWはやはりいたわけで(複数の意味でやはり「辺境」です)というような歴史意識がともかくもかなり共有されてきたこともあり「日本の英文科」を21世紀の志のある若者にとって魅力的な場所にするための妄想などを(まずは教科書作りとか)メールなどで送信できるようになってきたのはとても心強く(あと実働10年は仕事を頑張ろう)、退屈極まりない時代に(再度失礼!)バブル的に学生が集まり(英語を勉強するなら英文科という植民地的スノビズムゆえに)せっかく人文学(ついでにいえば社会科学も含めて)のなかでもかなり面白く(特にイギリスは資本主義の先駆的な場所ゆえに「近代」を勉強(批評=批判)するのに特権的な場所であるし、なにしろ既習外国語である英語でもって学部の段階から一次資料をガチで読める意味でも特権的であるので、アメリカよりもイギリスですよ、みたいなオープン・キャンパス風の口調にもなります)なってきた頃に閑古鳥が鳴いているというのは歴史のアイロニーとか思う。