ほぼ脱稿なのか

本日月曜日は終日蟄居でマニフェスト方面。国立方面(M浦さん)からのご注文に従い、論理構成の整理と「売り」のさらなる露出を。かなりスッキリしたのではと思いいったん作業停止(ロンドン時間23:30頃)。一晩寝かせて明日の朝に通読し、細かい語句のチェックの後に送信しよう。キーワード方面、すいません、すぐやりますと国立方面(K野S太郎さん)へ。そんなこんなで運動不足なので摂取カロリーにも気をつけて、1日2食で晩は2日つづけて蕎麦にする。Waitroseで蕎麦がSobaとして売っている。悪くない。そこで鶏の胸肉を買ってきて細かく切りごま油で炒め、それをそばつゆでネギとシメジと煮て、それを茹でた蕎麦に投入みたいな。まあまあ美味。明日からはジュリエット・ミッチェルゼミでのプレゼンの準備の準備。まずはあの古典的な名著『精神分析とフェミズム』を再読しないと。だいぶ前に茗荷谷のCOEのプロジェクトの文献解題でやった本だが、かなり忘れている。ただ私の関心の中心は1920年代の精神分析におけるアブラハム→クラインの流れにある特に「母娘関係」における「去勢」という問題系。これはベタでクイアな世界なのだが、バトラーなんかもは「しかと」している。小生は古典的な「テクスト主義者」であるので、実際にその辺を読んでしまうと、現行のフェミニズム理論が精神分析というときにたとえばバトラーが読んだ(表象=代弁する)フロイトだったりクラインだったりするのではという疑惑がある。「父息子関係」の混濁を解きほぐすナラティヴはすでに世に数多あるけれども、この「母娘関係」に関してはそれが決定的に欠けていると思う。なにしろフロイトが避けて通った世界なのだから。クラインにおいてもさほど明晰な理論が当然あるわけではない。その意味でも「想像的なもの」(ラカン)の再考が必要であるだろう。ベルサーニの「同じもの(ホモズ)」は男=男の世界だが、母=娘の「同一性」に関することを考えないといけないし、これは近代における典型的な「挫折したナラティヴ」だと思う。その辺が無視されたままでは精神分析は終わらない。

Mateiがこの前のdinnerの写真を送れと言ってきたのでどうしたのかと思ったら、Sonuさんが所長の研究所@UCLのブログを作っていた。なかなかシャレている:http://uchpd.wordpress.com