まじで冬だ

木曜金曜とBLにいつものように出勤(新入社員の遅刻程度の時間で)。木曜日のリヴィエールに関するプレゼンの準備の一環で、フロイトの短い論文をPEPで再読したりとか(ネットにつながらないので自宅でdownloadしてから)バトラーの『ジェンダー・トラブル』の精神分析を扱った箇所とかの再読とかとか。フロイトの混濁している議論と比べて明晰(すぎる)バトラーという印象が深い。これはやはり「臨床」を経験しているか否かということなのだろうか(もちろんこの「臨床」ということ、あるいはそれを根本的に可能にする「転移」ということにこそフロイト的な「ヤバさ」があって、その限りで小生はMikkel Borch=Jacobsenのフロイト読解に同意する箇所もあるが、結論についてはこれはまた別だなあ)。バトラーのintrojection/mourningとincorporation/melancholiaとの対象比較と、これと関連するmelancholic formation of heterosexualityのat the very baseにおけるhomosexualityのontological statusあたりの議論は、まだこれについて言わなければならないことがあるような気がする(ちなみにこの箇所は精神分析の議論(臨床)が参照されている)。そういえばたしか村山(敏勝)さんが『現代思想』のバトラー論で、「ああ、ジュディス、ここまで踏む込むか!」みたいに半分呆れながらこの辺に感嘆していたが、私もその時にそれに同意したのだが、ロンドンで時間があるのでStandard Editionでフロイトをゆっくり再読していると、これは「ふつー」に言えることだと思うようになってきた。まあ、しかし、70年代の『性の歴史』の「実証主義化」した「後期(positive)フーコー」を結論に持ってくるあたりでは、とても「ありがち」であるのだが。デリダとかコプチェクが言うように、それ以前のフーコーフロイト経験のほうが俄然面白いし重要なのだが、それは批評理論の「彼岸」ということか。やはりフロイトの「亡霊」ともおつき合いしないといけない。

これとは直接関係ないが、なんだかついでにウィキペディアの「精神分析」を見てみて「これはひどい」とかほとんど憐憫を感じる。いかにも「20世紀」をスキップした19世紀=21世紀的な言説の典型。かえってフロイトは「死なない」ことが逆に証明されるような記述。21世紀における臨床という点からの精神分析ということならば、勝手にリンクを張る(貼る?)がつぎをご覧いただくのがいいかと思う:http://home.u02.itscom.net/fukumoto/hp/

ロンドンは朝夕とも冬の気温。半袖のポロシャツの上にニットのサマーセーターを着て、その上に単なるウィンドブレイカーを着て出かけたらちょっと無理という感じだった。まあ、日本から持参したスキー用のジャンバーみたいなやつ(10年前のロンドン滞在時に購入し毎冬お世話になっている)を着用すれば、下は極端な話半袖でも大丈夫なのだが、ユニクロ@ロンドンで少々冬物を購入する必要もあるか。

来年度これもピンチヒッターで三田方面のみならず西荻方面にも出講ということになりそうだ。まあご近所だし、ほかならぬ「社長」のご依頼なので。ちょっと短めにHenry Jamesとかを読もうかと思うが、いかに。火水木の3日に吉祥寺&三田&西荻をまとめるという画策は大丈夫だろう。