ふたたび蟄居

本日土曜日は日本語関係の仕事を。明日日曜もその仕事となるだろう。木曜日のプレゼンは月火水で集中して準備することに。まあ引用個所も決まっているし、強調するところも決まっているので、大丈夫だろう。1時間のセミナーで、プレゼン30分、ディスカッション30分、研究発表でないので、ポイントの羅列ということで。ほんとうはパワーポイントを使いたいところだが無理なのでハンドアウトに(ダサっ)。帰国後はちゃんと勉強して使えるようにしよう。以前からMacを使ったパワポのプレゼンに憧れていたので。とくにあのレーザーみたいなやつを使うのがはなはだかっこ良い。パワポを使うと発表が単純になるという指摘があるが、引用とか議論の梗概とか構成とかに使用して、きちんと原稿を読めば、地球に優しい口頭発表になるし、ハンドアウトの数の予想に時間をかけて、挙げ句にそれに失敗して、それを持ち帰るむなしさもなくなるし。しつこいけども、それにカッコいいし。まあ小生、なんでも形から入るたちで。ということで水曜までは自宅蟄居ということになる。

丸谷才一が他界。87歳か。学部の頃少々随筆を中心に愛読したこともあるので(この方の小説はちょっとかなり無理。だって私小説がだめでそれへの抵抗で「本格小説」を書いていたひとだからね。小生は日本の小説は私小説しかないと思っているし。それに日本には階級がないから風俗小説としての近代小説がないからだめって...じゃあ、小説のために階級的な搾取があったほうがいいということになって、話についていけない、すげえ小説至上主義、これって皮肉なことに私小説の作家と同じじゃん、小説を書くことが世の中で一番大切という思想からして)。ただ『文章読本』は再読に値するかもしれないなあ。この方、ジョイスの専門家というふうに新聞が報道しているが、彼の小説観からするとアイルランド大英帝国の植民地だからジョイスは偉大な小説をかけたということにもなるが、それは正しいけれども正しくもない。ただ文学理論のある種のものはこの論法が陥穽としてある。ジェンダーを含めた資本主義的な差異の分析・批判が小説の美学=政治学研究の中心となり、それを活性化させたわけだが、言い方としてはサイード以後「英文学(研究)」はより豊かになった(笑)、サイード様のおかげで英文学という制度が延命した、という言い方も不可能ではなくて、この自意識がないと仕方がない(だれもが自意識なくできるようになったときに「ポスコロ」になる)。当然丸谷にはそれがない。いまの自意識のない英文学者はそれと逆だけれども反転して一緒。そういえば村山(敏勝)さんが、「政治批評は快楽となる」と喝破してある向きの顰蹙を買ったという記憶があるが、当然村山さんには自己言及的アイロニーがあったし、ベタな意味でも政治的な実践の人であった。

夕食に急にインド料理が食べたくなり、月に1、2回行くところに。軽い朝食のあとパソコンでパチパチと日本語を入力していたら、かなり空腹になったので、普段は1皿のカレーを2皿にしたら、満腹すぎる。すごいカロリーだろうなあ、インド料理。それは実感としてあるばかりか、この店の従業員、例外なく腹が出ている。気をつけないと。いまのところ体重は微増以下に保っているはずだが、あと半年これを保たないと。どうせ日本に帰ったら多忙ですぐに体重は落ちるだろうけれども。ロンドンはとっても冬。まじめに寒い。例のスキー用のジャンバーを着用(下は半袖のポロシャツだが)。