日本語が亡びるとき

この本いろいろと議論が杜撰というか荒唐無稽なところがあっていかにもいい意味でこの著者らしいとか思っていたが、昨日の日経の夕刊でこの方のインタヴュ記事が出ていて、そこでとても真っ当なことをおっしゃっている。引用すると:

ある程度難解な日本語を読む快楽を若いとき(高校卒業か、遅くとも大学卒業まで)に味わないでいると、段々面倒になってきます。そういう人ほど(グローバル社会では)英語ができなくては、と強迫観念にとらわれます。しかし、私は日常会話ができる程度の英語のことを「筋肉英語」と呼んでいますが、この能力がいくらあっても、英語が読めない、書けないでは外国では優秀な日本人にはなれません。いかに日本語を学んできたかに英語の読み書きの能力がかかっているのです。

「日常会話」というのもabstractionであって、その質もどの程度に書き言葉の能力があるかで決まってくるのであるが、ともかくこういった常識以前の議論がなくて、昨今のごとき水準の「英語教育改革」談義が「大学改革」といった脈絡で喧しいようでは、間違いなく「亡びるね」である。昨日のエントリーでayoshinoさんのコメントにお返事したようにまずは「英文科」が亡び始めている。これは大きな滅亡の小さな前兆であるのだろう。昔、小池先生が「英語の勉強は日本語の勉強だ」としばしばおっしゃていたことを思い出す。あるいは安東先生の英語なども。そういえばこの前にある会の流れでお目にかかった草光先生とそんなお話をしたっけ。

あ、いやだ、いやだ。

追記:以前から子供に懇願されていたのだがなかなか時間がなくて果たせなかった約束、バッティング・センターに連れて行くことを、今日の夕方に果たす。長らくすまなかった。子供はまだバットに振り回されているような体格だが80キロの球ならかなり当たっていたので今の段階としては上出来か。小生のほうは以前は130キロを楽々ミートしていたのに、長らくご無沙汰していたせいか120キロでも扇風機状態。子供に慰めれる。情けない。

追記2:国立方面の原稿をたったいま送信する。なんだかほっとする。明日は1日仕事が出来ないから今日中にできてよかった。